5月30日

大日本帝国海軍, Public domain, via Wikimedia Commons

大日本帝国海軍元帥 東郷平八郎様が薨去された日です。

東郷元帥についてウイキペディアには以下の記述がありました。

東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、1848年1月27日〈弘化4年12月22日〉 – 1934年〈昭和9年〉5月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。各地の東郷神社に名を残す。位階は従一位、勲位は大勲位、功級は功一級、爵位は侯爵。

日清戦争では「浪速」艦長として高陞号事件に対処。日露戦争では連合艦隊司令長官として指揮を執り日本海海戦での完勝により国内外で英雄視され、「陸の大山海の東郷」「東洋のネルソン](The Nelson of the East)」と呼ばれた。

山梨勝之進は「世界史的な観点から海軍の名将を列挙するならば」として8名の提督を挙げた上で、ホレーショ・ネルソン、デヴィッド・ファラガット、東郷平八郎の3名について特記している

明治時代の日本海軍の指揮官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた一人。日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、その名を広く知られることとなった。当時、日本の同盟国であったイギリスのジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、東郷と同藩出身者であり同じく日露戦争における英雄である満州軍総司令官・大山巌と並び、「陸の大山 海の東郷」と称され国民の尊敬を集めた。

東郷元帥の生い立ちやご活躍についての記述もございましたが、今回は省かせていただきます。

昭和9年(1934年)5月30日薨去されました。その後、東京都渋谷区と福岡県宗像郡津屋崎町(現・福津市)に「東郷神社」が建立され、神として祀られた。ただし東郷自身は生前の乃木神社建立時、(陸軍に対抗するために)将来自身を祭る神社の設立される計画を聞いて驚き、「やめてほしい」と強く懇願した。願いは聞き入れられず結局、没後に神社は建立されている。墓所も生前、母親の益子の眠る青山墓地への埋葬を希望したが、これも聞き入れられず多磨霊園に埋葬されることとなった。東郷が埋葬された影響によって多磨霊園に墓を作る国民が続出し、同じ墓域には後に山本五十六、古賀峯一の墓所も設けられた。

東郷の銅像は埼玉県飯能市の東郷公園(秩父御嶽神社内)、神奈川県横須賀市の三笠公園、長崎県佐世保市の東公園(佐世保東山海軍墓地)[22]、鹿児島市の多賀山公園の4か所に現存する。鎌倉武士の血筋であり先祖代々日蓮宗の崇敬者であったことから東京都府中市の東郷の別荘跡地には海軍関係者が中心となって日蓮宗寺院聖将山東郷寺が建立され現代では枝垂桜の名所となっている。

晩年において海軍における東郷の権威は絶大で、官制上の権限は無いにもかかわらず軍令・軍政上の大事は東郷にお伺いを立てることが慣例化していた[注釈 6]。 海軍省内では軍令部総長・伏見宮博恭王と共に「殿下と神様」と呼ばれ、しばしば軍政上の障害とみなされた。そして伏見宮すら「自分と東郷の意見が分かれるようなことがあってはならん」と気にしていた。井上成美は「東郷さんが平時に口出しすると、いつもよくないことが起きた」と述懐したうえで、「人間を神様にしてはいけません。神様は批判できませんからね」と語っている。また岡田啓介、米内光政、山本五十六なども、東郷の神格化については否定的な態度をとっている。昭和期の海軍内の抗争において、東郷と伏見宮は艦隊派を後援し、岡田らは条約派に属した。

東郷に関する著作物中、重要なものは「東郷の私設副官」といわれた小笠原長生によるが、山路一善は小笠原に対し「閣下の東郷元帥に関する著書や講演のなかには、潤色が度に過ぎて誇大に失するものがあり、日本の歴史を誤るのではないかと憂える」と述べたとされる。野村実はこの一例として日本海海戦時に「三笠」艦上にあった今村信次郎が東郷の前で事実と異なる点を指摘し、東郷は「証人がいては仕方ない」と小笠原に訂正を指示させていたことに触れているが、これは右手でジェスチャーをしたことが書かれていない指摘であって、むしろ潤色とは逆である。

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