5月5日・・・工藤公康さんの誕生日です
5月5日は端午の節句、こどもの日です。ウイキペディアには以下の記述がありました。
端午の意味
旧暦では午の月は5月に当たり(十二支を参照のこと)、5月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、後に5が重なる5月5日が「端午の節句」の日になった。「端」(はし)は「始め・最初」という意味であり、「端午」は5月の最初の午の日を意味していたが、「午」と「五」が同じ発音「ウ-」であったことから5月5日に変わった。同じように、奇数の月番号と日番号が重なる3月3日、7月7日、9月9日も節句になっている。
菖蒲の節供
端午節に菖蒲などの多種の薬草を厄除けに用いることは中国の南朝梁・隋朝の文献に記されており、菖蒲は刻んで酒に混ぜて飲む、とある。
日本では、菖蒲を髪飾りにした人々が宮中の武徳殿に集い、天皇から薬玉(くすだま:薬草を丸く固めて飾りを付けたもの)を賜った。かつての貴族社会では、薬玉を作り、お互いに贈りあう習慣もあった。宮中の行事については、奈良時代に既に「菖蒲のかずら」等の記述が見られる。
鎌倉以降の時代になると、「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、又、菖蒲の葉の形が剣を連想させる事などから、端午は男の子の節句とされたと仮説されている。そして男の子の成長を祝い、健康を祈るようになった。鎧、兜、刀、武者人形や金太郎・武蔵坊弁慶を模した五月人形などを室内の飾り段に飾り、庭前にこいのぼりを立てるのが、現在に至る典型的な祝い方である(但し「こいのぼり」が一般に広まったのは江戸時代になってからで、関東の風習として一般的となったが、京都を含む上方では、当時は見られない風習であった)。鎧兜には、男子の身体を守るという意味合いが込められている。
江戸時代迄、端午の日に子供は河原などで石合戦をする「印地打ち」という風習があったが、負傷者や死亡者が相次いだ為に禁止となった。また、印地打ちが禁止になった後、菖蒲を刀の代わりにした「菖蒲切り」というチャンバラが流行した。
端午の日には柏餅(かしわもち)を食べる風習がある。柏餅を食べる風習は日本独自のもので、柏は、新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まっていった。
なお、男の赤ん坊を持つ家庭にとっては初節句となるため、親族総出で盛大に祝われる事も多い。特に、家意識が強い地域ではその傾向が顕著である。5月5日が祝日であり、更に、前後に祝日を伴う春の大型連休期間中であるため、雛祭り以上に親族総出で祝われる。
女性の節句
日本においては、女性が田植えの前に穢れを祓う斎戒を五月忌み(さつきいみ)と呼ばれた。また「フキゴモリ(葺き籠り)」と称して、5月4日(端午節の前夜にあたる)には、男性が戸外に出払い、女性だけが菖蒲やヨモギで葺いた家の中に閉じこもって過ごす習俗があった。尾張(愛知県)や伊勢(三重県)らのフキゴモリ例が挙げられているが、5月5日を女の家と称する風習は、中部地方以外にも四国地方の一部にみられる。近松門左衛門(1725年没)が晩年の作中で、五月五日のことを「女の家(おんなのいえ)」と言及しているが、これは女性がこの日に家籠りする風習をさしているとされていて、この風習が少なくとも江戸中期に遡ることがわかる。
一部の学者は、女性の葺き籠りや菖蒲湯の沐浴として、中世以前から確立していると主張し、本来は女性にまつわる習俗から、男児にまつわるものへと中世末期から近世にかけて移行したと論説する。すなわち「菖蒲の節供」は元々女性の節句だったとする。
また、5月4日の夜から5月5日にかけてを「女天下」と称し、家の畳の半畳分ずつあるいは家全体を女性が取り仕切る日とする慣習を持つ地域がある。
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