6月8日は預言者ムハンマドがこの世を去った日らしいです。預言者ムハンマド・・・聞いたことはありますが、詳しくは知りません。ウイキペディアには以下の記述がありました。
ムハンマド(アラビア語: محمدMuḥammad, 570年頃 – 632年6月8日)は、アラブの宗教的、社会的、政治的指導者であり、イスラム教の創始者である。イスラム教の教義によると、彼は預言者であり、アダム、アブラハム、モーセ、イエス、その他の預言者の一神教の教えを説き、確認するために遣わされた。ムハンマドはイスラム教のすべての主要な宗派において神の最終預言者と考えられていたが、現代の一部の宗派ではこの信念から外れているものもある。ムハンマドはアラビアを一つのイスラム教国家に統一し、コーランと彼の教えと実践がイスラム教の信仰の基礎となっている。
約570年(象の年)にアラビアの都市メッカで生まれたムハンマドは、6歳の時に孤児となった。父方の祖父アブド・アル・ムッタリブの世話の下で育てられ、彼の死後は叔父のアブー=ターリブに育てられた。後年、彼は定期的にヒラという名の山の洞窟に身を潜め、数日間の祈りの夜を過ごした。彼が40歳の時、ムハンマドは洞窟の中でガブリエルの訪問を受け、神からの最初の啓示を受けたと報告していた。613年、ムハンマドはこれらの啓示を公に説き始め、「神は一つである」こと、神への完全な「服従」(イスラーム)が正しい生き方(ディーン)であること、そしてムハンマドはイスラム教の他の預言者と同様に、神の預言者であり、神の使者であることを宣言した。
ムハンマドの信者は当初は数が少なく、メッカの多神教徒からの敵意にさらされていた。ムハンマドは615年に信奉者の一部をアビシニアに送り、訴追から身を守るために、622年にメッカからメディナ(当時はヤトリブと呼ばれていた)に移住した。この出来事、ヒジュラはイスラム暦の始まりであり、ヒジュラ暦としても知られている。メディナでは、ムハンマドはメディナ憲法の下で部族を統一した。629年12月、メッカの部族との8年間の断続的な戦いの後、ムハンマドは10,000人のイスラム教徒の改宗者からなる軍隊を集め、メッカの街へ進撃した。この征服ではほとんど争いは起きず、ムハンマドはほとんど流血することなく街を占領した。632年、別離の巡礼から戻って数ヶ月後、ムハンマドは病に倒れて死んだ。彼が亡くなった時には、アラビア半島のほとんどがイスラム教に改宗していた。
ムハンマドが死ぬまでに受けたとされる啓示(それぞれの啓示はアヤ(文字通り「神のしるし」)として知られている)は、イスラム教徒にとってはこの宗教の基礎となる「神の言葉」としてコーランの一節を構成している。コーランの他にも、ハディースやシラ(伝記)に記されているムハンマドの教えや実践(スンナ)もまた、イスラム法(シャリアを参照)の源として支持され、使用されていた。
啓示については下記の記述があります。
ムハンマドは、アラビア半島の商業都市マッカ(メッカ)で、クライシュ族のハーシム家に生まれた。父アブド・アッラーフ(アブドゥッラーフ)は彼の誕生する数か月前に死に、母アーミナもムハンマドが幼い頃に没したため、ムハンマドは祖父アブドゥルムッタリブと叔父アブー・ターリブの庇護によって成長した。
成長後は、一族の者たちと同じように商人となり、シリアへの隊商交易に参加した。25歳の頃、富裕な女商人ハディージャに認められ、15歳年長の寡婦であった彼女と結婚した。ハディージャは、ムハンマド最愛の妻として知られる。ムハンマドはハディージャとの間に2男4女をもうけるが、男子は2人とも成人せずに夭折した。
610年8月10日、40歳ごろのある日、悩みを抱いてマッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想にふけっていたムハンマドは、そこで大天使ジブリール(ガブリエル)に出会い、唯一神(アッラーフ)の啓示(のちにクルアーンにまとめられるもの)を受けたとされる。その後も啓示は次々と下されたと彼は主張し、預言者としての自覚に目覚めたムハンマドは、近親の者たちに彼に下ったと彼が主張する啓示の教え、すなわちイスラーム教を説き始めた。最初に入信したのは妻のハディージャで、従兄弟のアリーや友人のアブー・バクルがそれに続いた。
613年頃から、ムハンマドは公然とマッカの人々に教えを説き始めるが、アラビア人伝統の多神教の聖地でもあったマッカを支配する有力市民たちは、ムハンマドとその信徒(ムスリム)たちに激しい迫害を加えた。伯父アブー・ターリブは、ハーシム家を代表してムハンマドを保護しつづけたが、619年頃亡くなり、同じ頃妻ハディージャが亡くなったので、ムハンマドはマッカでの布教に限界を感じるようになった。
また、宗教によっては預言者ムハンマドの捉え方が異なる事を知りました。
イスラム教の公式教義におけるムハンマド
イスラム教の教義においては、ムハンマドは唯一神(アッラーフ)からイスラム共同体に対して遣わされた「神の使徒」とされ、最後にして最大の預言者と位置づけられている。「ムハンマドは神の使徒である」という宣誓は、シャハーダ(信仰告白)として、信徒の義務に位置付けられる。
ムスリムの民間信仰におけるムハンマド
ムスリムの民衆にもムハンマドは非常に敬愛され、一種の聖者と見られている。ヒジュラ暦でムハンマドの誕生日とされるラビー・アル=アウワル月の12日は、預言者生誕祭として大々的に祝われる。
イスラーム神秘主義におけるムハンマド
内面を重んじるイスラーム神秘主義(スーフィズム)の流れにおいては、ムハンマドは「ムハンマドの光(ヌール・ムハンマディー)」と呼ばれる、神によって人類が創造される以前から存在した「光」として、神にまず最初に創造された被造物を受け継いで人間として生まれ出でたのだ、と観念された。
キリスト教圏におけるムハンマド
カトリック、プロテスタント、英国国教会、正教会の違いこそあれ、キリスト教圏では、ムハンマドは「新たな契約を結んだイエスの後に、余計なものを付け加えた者」と映ることが多かった。そのため、古来よりイスラム教に対して敵愾心を持つことも多々あった。その最も端的な例が、ビザンツ帝国への初期イスラームの侵攻による征服以後、イスラム教徒の支配下にあった、聖地エルサレムをキリスト教支配下に再征服する目的で編成された十字軍といえる。
イスラームについての正確な知識が乏しかった中世ヨーロッパにおいては、ムハンマドはサラセン人の信仰する神々のうちの一柱であるとも考えられていた。たとえばフランスの武勲詩『ローランの歌』においてマフム(Mahum, Mahumet)はテルヴァガン(Tervagan、語義未詳)およびアポリン(Apollin、アポロンが語源)とともにサラセン人多神教の主要三神であると歌われている。また、南ドイツの伝説的英雄ディートリヒ・フォン・ベルンは悪霊マフメット(Machmet)の子供であるという伝説も流布していた。フランソワ・ラブレーの『パンタグリュエル』では、マホン(Mahon)が悪魔のうちの一人として現れている。
ユダヤ教におけるムハンマド
ユダヤ教では、イエス同様ユダヤ教の内容を歪曲した新宗教を作り上げた人間とされている。
バハイ教におけるムハンマド
バハイ教ではムハンマドを預言者の一人として崇敬している。しかし彼らが従うのはバーブおよびバハーウッラーの教えである。
シーク教におけるムハンマド
シーク教においてもムハンマドは預言者、聖者として高い尊敬を受けている。
上記のようにそれぞれの宗教によりムハンマドは聖者、預言者と敬われる存在、余計なことをした邪魔者などと全く異なる存在とされていることに驚きました。
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