祖父は私が生まれる前に亡くなりました。私が生まれる数か月前だったようです。そのため私には祖父の思い出はありません。父によると祖父は長野県佐久の出身。その後、東京へ上京し浅草に居を構え、父は浅草で生まれたそうです。父は江戸っ子ではありませんが、父は「ひ」の発音が「し」となります。それはやはり浅草育ちのせいなのでしょう。
祖父はインテリだったと父はいいます。フランス語で書かれた民権運動や労働問題の書籍を持っていたそうです。フランス語の読み書きができたかどうかは定かではありませんが、ふつうは持たない種類の書籍であることは間違いないです。第二次世界大戦前 民権運動に加担するものは危険思想者として特高警察の標的となったようです。祖父もそのような対象になっていたと思われます。そのため祖父は定職に就くことができなかったようです。家計は祖母と長女が担ったようです。長女は若いころから働きはじめました。自宅が浅草にあったこともあり浅草の歓楽街で働いたようです。また、親戚筋からの仕送りも受けていたようです。裕福でないため父たちは十分な教育をうけることはできませんでした。また、時代の戦中、戦後の混乱の時代の影響もあったと思います。
祖父は長野県佐久からなぜ上京したのか?それは明治時代に起きた秩父(困民党)事件が関係あった父から聞きました。ウィキペディアによると「秩父事件(ちちぶじけん)は、1884年(明治17年)10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父郡の農民が政府に対して負債の延納、雑税の減少などを求めて起こした武装蜂起事件。隣接する群馬県・長野県の町村にも波及し、数千人規模の一大騒動となった。自由民権運動の影響下に発生した、いわゆる「激化事件」の代表例ともされてきた。」と記述されています。この事件は日本史の教科書にものるような事件だったようです。この事件に祖父がどのようにかかわったのかはわかりません。ネットで調べると長野県佐久でも政府軍と困民党の戦闘があったようでした。祖父の名前をネットで検索しましたが出てきませんでした。しかし、長野県佐久の政府軍と困民党との戦闘には、祖父と同じ苗字の方々が見つかりました。その方がと祖父との関係性もわかりません。親戚であることは間違いないと思われますが、どの程度の近さなのかは定かではありません。祖父は明治25年生まれであることから曾祖父がこの事件に直接的にかかわったのではないかと推測します。曾祖父は私にとってはさらに謎だらけの人物です。というのも父が他界した時に直系親族の戸籍を取り寄せたときに、初めて曾祖父の名前を知りました。この曾祖父が日本の民権運動に加担し、その子であるわたくしの祖父も思想的影響を受けて育ったのだと思われます。当時、そのような思想に傾倒するからにはそれなりの知性を持っていた インテリだったのは間違いないと思います。父の学歴はありません。最低限の義務教育しか受けていません。それは、父にはコンプレックスだったに違いないです。しかし、読書家でした。とにかく本を読み博学でした。学歴のある人に負けない知識を得るために本を読んだのだと思います。また、父は話し好きでした。たまに嘘が混じりましたが。勉強する機会があったのならそれなりに勉強できた人だったと思います。曾祖父、祖父にも劣る事のないインテリであったと思います。
祖父の話の戻りますが、いろんな人を自宅に呼んだり、また自ら人に会うために出かけることも多かったようです。自分の思想のため家族に迷惑をかけてることに申し訳ない気持ちを持っていたのかどうかわかりませんが、頑固な人であったことは間違いないです。祖父は血圧が高かったようでした。脳溢血であっという間になくなったとの話です。最後はあまり家族に迷惑をかけなかったようです。血圧が高い家系のようで父の兄にあたる長男は若くして祖父と同じく脳溢血で他界したとのことです。
一度、機会があったら曾祖父がどのような人であったか調べてみたいと思っています。秩父事件とどのようなかかわりがあったのか?長野の佐久で起きた困民党を政府軍の戦闘に関係していたのか?曾祖父は長野から東京へ来たのか?祖父が長野から東京へ来たのか?なぜ、父は浅草で生まれたのか?知りたいことはたくさんあります。
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