深川不動尊様へのご参拝の続きです。
HPの記述の追記です。大正12年、未曾有の大震災である関東大震災が東京を襲います。幸い御本尊及び諸仏は役僧によって運び出され難をのがれたものの、諸堂伽藍は全て焼失してしまいました。数年間境内整備もままならず仮本堂の状態が続きましたが、ご信徒の熱望と寄せられた浄財により、昭和3年(1928)本堂が再建され盛大な入仏供養記念開帳が執行されたのであります。ところが、昭和20年(1945)の東京大空襲により再び東京は火の海に包まれてしまいます。深川はまったくの焼け野原となり、不動堂の堂宇もことごとく灰燼に帰しました。このときも御本尊は役僧達の必死の努力により焼失を免れ、いったん成田山の光明堂へ遷座されることとなりました。
再建に向け、成田山には「深川不動堂本堂建立事務局」が開設され、着々と準備が進んでいきました。しかし占領下の日本では、建築面積等に制限があり、計画通りの本堂を建立することができません。そこで、千葉県印旛郡の天台宗龍腹寺地蔵堂を移築するという計画が検討され、成田山側と龍腹寺側による話し合いの末、譲渡寄進が決定しました。建物は、成田山工務課により解体され、深川へ運ばれました。昭和25年ついに本堂の上棟式が執り行われ、深川不動堂は甦ったのであります。その後、ご信徒皆様の多大なご信助を賜り平成14年に内仏殿が落慶、平成24年9月には新本堂が落慶しました。こうして、不動明王の広大無辺の威徳と成田山別院としての嚆矢たる法燈は今も脈々と受け継がれているのです。
当山に奉祀するご本尊は不動明王です。そもそも成田山新勝寺のご本尊は、嵯峨天皇の勅願により弘法大師が一刀三礼敬刻開眼した不動明王のご霊像です。ご宝前では絶えず護摩法が奉修されており、そのあらたかな霊験により今も多くの人々から信仰を集めています。このご尊像のご分身ご分霊が当山のご本尊です。当山においても、毎日お護摩を厳修し、皆様の諸願成就をご祈念致しております。
今日のご参拝で「しょくごくまいり」という言葉を初めて知りました。一般的には正月・5月・9月はお参り月とされ、このことを正五九(しょうごく)参りといい、多くの方が神社へ参拝されます。
なぜ正月・5月・9月にお参りの習慣があるのか、これは古代日本の農耕文化(弥生文化)が関係しているようです。
農耕文化は稲作によって成立し、種まき・田植え・収穫という毎年同じことが繰り返される生活であります。
春の如月(2月)の中頃、草木の更正期にあたり、各神社においては、稲穂の成長を祈る祈年祭(春祭)が斎行され、五穀の豊穣・農事の安全、さらに国民の安寧・国家の隆昌を祈ります。
5月になると田に水を張り、古式ゆかしい作法により、早苗が植えられます(お田植祭)。そして、四季の移り変わる状況を見さだめながら、真心をこめて育てあげ、日を追うごとに黄金色に染まる稲穂の収穫時期(秋祭)を迎えるのが9月であります。
このようにして正月・5月・9月は特に神様のご加護を頂いて農事の安全と豊作を願います。
農耕文化と神仏への祈り願いなどがうまく絡み合い「しょうごくまいり」という風習が出来上がったことがわかりました。お米がしっかり収穫できることが最大の願いでした。年の始まり、田植え時期、収穫はとても大切な時期。お米の収穫は死活問題でした。やはり昔の人々と神仏とのつながりは深かったと感心しました。五穀豊穣は多くの人々の願い。それを叶えて欲しいから神仏に願う。戦に勝ちたい武将たちもそれを神仏に願う。願いが叶うとその礼を尽くす。そのような好循環が古く昔からこの日本では続いてきたのだと感心しました。
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