元祖山手七福神めぐり

今日は午後から出勤でした。でも家はそれなりの時間に出てきました。地元の氏神様へお参りして同じ境内にあるお稲荷様にもお参りしました。いつもの通勤経路をとぼとぼ歩き地下鉄の駅に到着。途中で三田線に乗り換えて目黒駅に到着しました。勤め先は行人坂を下り目黒川を渡り、さらに山手通りを渡ります。行人坂の途中に天台宗の大円寺というお寺があります。元祖山手七福神巡りで大黒様を祀る寺院です。

【天台宗東京教区HPより】目黒駅西口を下りると急な坂行人坂があり、坂の途中に大円寺がある。この坂は江戸市中から目黒不動尊への参詣路であった。行人坂の名は、大円寺を拠点にする修験道の行者が、この坂道を往来したことによる。寺伝では、寛永元年(1624)出羽湯殿山の修験僧大海法印が大日如来を本尊として道場を開いたのが始まりという。
明和9年(1772)寺より火を発し、江戸市中628町に延焼した。振袖火事、車町火事と並ぶ江戸三大火事の一つになり、行人坂火事として安永元年と年号も改められた 幕末になって薩摩藩島津氏の菩提寺として再興された。門を入った左手にある五百羅漢の石像(都有形)は、この大火の犠牲者供養のために当時につくられたものと伝える。
境内左側釈迦堂の本尊釈迦如来立像(国重文)は、鎌倉初期の清涼寺式生身の釈迦像であり、胎内に五臓六腑がおさめられている。正面本堂には、江戸城裏鬼門にあたる為徳川家康をモデルに大黒天を祭る。山手七福神の一つで、今日でも参詣者を集めている。
阿弥陀堂には弥陀三尊が祭られお七地蔵の木彫もある。
墓地に西運の墓がある。西運は江戸初期、隣の明王院(現在の雅叙園の位置)に住し、行人坂の修築などを行った。門前にその時の行人坂敷石造道供養碑がある。西運は八百屋お七の恋人吉三の出家後の名である。
また境内に江戸時代の庚申塔が3基あり、会津八一の歌碑も残されている。
行人坂を下ると目黒川にかかる橋がある。雁歯橋とも太鼓橋とも呼ばれ、今は後者が橋の名になっている。その当時使用された石材は寺の境内に置かれている。太鼓橋の往時の景観は、広重の錦絵「名所江戸百景・目黒太鼓橋より夕日の岡」に残されている。明王院、大円寺一帯は夕日の岡といわれ、紅葉・桜の名所でもあった。

【猫のあしあとHPより】文化財

  • 清涼寺式釈迦如来立像(国指定文化財)
  • 大円寺石仏群(東京都指文化財)
  • 木像十一面観音立像(目黒区指定文化財)
  • 行人坂敷石造道供養碑
  • 木造阿弥陀三尊(目黒区指定文化財)
  • 目黒川架橋供養勢至菩薩石像(目黒区指定文化財)
  • 釈迦如来立像(目黒区指定文化財)

大円寺石仏群(昭和45年8月3日指定)

明和9年(1772)2月に江戸市街地を焼いた大火があり、火元と見られたのが大円寺であった。大円寺では焼死した人々を供養するために、天明頃(1781-9)境内に五百羅漢像等を建立したと「新編武蔵風土記稿」は記述している。
しかし判読できる銘文によると、明和の大火で死亡した者のみの供養ではなさそうであるが、江戸災害史の貴重な記念物であることには変わりない。(東京都教育委員会)

木像十一面観音立像(昭和59年3月31日指定)

この像は一木彫刻で、表面がかなりやつれ、面相も衣文線も制作当初の鋭い彫りの調子を失っているが、造法も作風も古様を伝えている。
やや面長な面相、伏眼がちの眼の表現、細身で長身な体躰等いずれも藤原時代の特色を示し、区内の彫刻の中では最も古い遺品の一つと推定される貴重なものである。

行人坂敷石造道供養碑

この供養碑は、高さ164cm。碑の上部に種子(梵字)キリーク(阿弥陀)サ(観音)サク(勢至)が刻まれています。 下部の碑文によって、この坂を利用する念仏行者たちが悪路に苦しむ人々を救うため、目黒不動尊龍泉寺や浅草観音(浅草寺)に参詣し、通りがかりの人々から報謝を受け、これを資金として行人坂に敷石の道を造り、この成就と往来の安全とを供養祈願したことがわかります。 施主は西運で元禄16年(1703)の紀年があり、江戸と目黒の社寺を結ぶ重要な参詣路であった行人坂開発の歴史を知るうえに貴重な歴史資料です。

木造阿弥陀三尊(昭和59年3月31日指定)

中尊阿弥陀如来像は来迎印を結び、左足を垂下した半跏の姿、観音像は蓮台をもち左膝を立てた典型的な来迎形の阿弥陀三尊であるが中尊が半跏座の姿をとる例は珍しい三尊形式である。 三尊とも江戸時代の典型的な作風を示し、江戸時代の仏像がいずれもこじんまりとしているのに対し気宇広大な特色を持っている。 また両脇侍像蓮台の木札に明和7年(1770)大仏師桃水伊三郎等の銘があることも貴重である。

目黒川架橋供養勢至菩薩石像

下から台座97cm、連座20cm、頂上に宝瓶のついた宝冠をかぶり、両手合掌、半跏趺坐の勢至菩薩像52cmの3段になっています。台座の前面と両側面に、江戸中期における目黒川架橋のことを語る銘文が刻まれています。 銘文によると、宝永元年(1704)に西運という僧が目黒不動龍泉寺と浅草観音(浅草寺)に毎日参詣し、往復の途中江戸市民の報謝を受け、両岸に石壁を築いて雁歯橋を架けたことがわかります。 目黒川架橋の史実を物語る貴重な資料です。

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