三十三間堂の千手観音様

京都の三十三間堂へ奥さんと一緒に行っていました。久しぶりの京都訪問でした。以前勤めた会社で京都府を担当していたことがありました。たったに2年でしたが・・・京都の夏は暑いです。京都の夏は祇園祭、鴨川の床が連想されます。また、夏の終わりの大文字送り火・・・初めて京都へ行ったのは母親に連れられて金閣寺へ行った記憶です。冬で雪がうっすら積もっていたような記憶があります。その後は中学の遠足で清水寺、金閣寺。その後は大学受験で行った。大学時代は高校時代の友人が京都の大学へ行ったのでその下宿へ遊びに行った記憶です。自分の人生で多分 三十三間堂は初めての参拝だったと思います。今回、京都駅の近くでレンタカーを借りて参拝へ伺いました。移動時間はわずか15分程度でした。三十三間堂の駐車場の入り口が分からず、周りを一周でしてしまいました。駐車場入口にガードマンが立っていて指示に従い空きスペースに駐車しました。広い駐車場は無料で利用できてラッキーでした。三十三間堂に入ってとても厳かな気分になりました。堂内は撮影禁止だったのが残念でした。堂内にはぎっしり1001体の仏像が並んでいました。参拝者には外国のかたもかなりいました。そこにいるだけで自分が癒される、自分の霊性が高められるような気になりました。ここにいるそれだけで良い。ここに居れることが、感謝。何に感謝?親やご先祖様に感謝。自分の周りの人に感謝。だただ感謝・・・そんな気分になりました。三十三間 歩くと結構な距離でした。大昔の日本でこのような巨大建造物を作った技術のすばらしさ。人間の力は素晴らしい。また、その時代の権力者の強大な権力と財力を感じました。堂内の参拝を終えて建屋の外へ出るとトヨタの高級車センチュリーの新型が駐車していました。一般の駐車場ではなく、お堂の近くに駐車されているので大物政治家か?皇室関係者が参拝されていたのかもしれません。「さすが、三十三間堂!」

三十三間堂について調べてみました。ホームページには以下のように記述されています。

正式名は、蓮華王院で、その本堂が「三十三間堂」と通称されます。これは、東面して、南北にのびるお堂内陣の柱間が33もあるという建築的な特徴によります。「三十三」という数は、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表しています。  平安後期、約30年の間、院政を行った後白河上皇が、自身の職住兼備の「法住寺殿・ほうじゅうじどの」と呼ぶ院御所内に、当時、権勢を誇った平清盛の資財協力によって創建したものでした。 ところが、そのお堂は建長元年(1249)、市中からの火災により焼失し、鎌倉期・文永3年(1266)に再建されたのが現存のものです。朱塗りの外装で、堂内は、花や雲文様の極彩色で飾られたといい、今もわずかにその名残を停めています。  地上16メートル、奥行き22メートル、南北120メートルの長大なお堂は、和様、入母屋造り本瓦葺きで、手前からはるか彼方へ一点透視的に漸減する眺めは、胸のすく壮快さです。お堂の建てられた平安期、都には見上げるような大建築がありましたが、その多くは、地震や火災のために、短期間で姿を消してしまいました。この反省から、工人たちは様々な工夫を凝らしたのです。  まず、基礎地盤には、砂と粘土を層状に堆積して地震時の地下震動を吸収する〈版築・はんちく〉を用い、堂内の屋台骨は、柱間を2本の梁でつなぐ〈二重虹梁・にじゅうこうりょう〉とし、外屋の上部も内・外柱に二重の梁をかけて堅固さを増加しました。 加えて、構架材の柱や長押、梁は“揺れ”を予測した組み方とし、土壁面積を極力小さくした上で、溝を切った柱に板壁として横板を落し込む〈羽目板・はめいた〉とするなど、お堂は、波に揺れて浮ぶ筏のように“揺れ動く”建築としての免震工法が施こされたのです。

- お堂の再建と護持 久寿2年(1155)、第77代天皇として即位した後白河天皇は、わずか3年で二条天皇に位を譲って以後、上皇として「院政」を行いました。三十三間堂は、その御所に造営されましたが、80年後に焼失し、まもなく後嵯峨上皇によって再建されました。  その後も手厚く護持され、室町期・足利第六代将軍義教により本格的な修復が行なわれます。彼は仏門に入って、比叡山・天台座主を勤め、京洛の禅寺に修理の寄付勧進を命じて、屋根瓦の葺き替えをはじめ、中尊・千体仏と5ケ年を費やして内外両面の整備を行ったのでした。

千手観音坐像   左右、計千体の等身観音立像に囲まれて、お堂中央に安置されるのが丈六の坐像で「中尊・ちゅうそん」と呼びます。広々とした空間の巨像は、像高が3メートル余、檜材の寄木造りで全体に漆箔が施されています。42手で「千手・せんじゅ」を表わす通例の像形で、鎌倉期の再建時に、大仏師湛慶(たんけい)が、同族の弟子を率いて完成させたものです。  像全体の均整が保たれ、厚ぼったい感じのする一種の張りのある尊顔や、温雅な表情は湛慶の特徴的作風とされ、観音の慈徳を余すところ無く表現しています。  84才で亡くなる湛慶が、その2年前に完成した鎌倉後期を飾る代表的作品です。

千体千手観音立像   前後10列の階段状の壇上に整然と並ぶ等身大の1000体の観音立像は圧巻で、堂内は、さながら“仏像の森”、三十三間堂ならではの特徴です。各像は、頭上に十一の顔をつけ、両脇に40手をもつ通形で、中尊同様の造像法で作られています。  千体の中、124体は、お堂が創建された平安期の尊像、その他が、鎌倉期に16年かけて再興された像です。その約500体には作者名が残され、運慶、快慶で有名な慶派をはじめ、院派、円派と呼ばれる当時の造仏に携わる多くの集団が国家的規模で参加したことが伺えます。また、観音像には、必ず会いたい人に似た像があるとも伝えられています。

また、伺いたい場所でした。心が癒される、仏像をただ見ているだけで心の垢が落とされるような気がしました。お堂は薄暗いく、外界とは違う異次元空間でした。

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