三嶋大社

今回の神社仏閣ツアーの二日目のスタートです。熱海で一泊して熱海駅近くでレンタカーをかりで三嶋大社へ向かました。熱海から一山超えると三嶋にでます。今回 三嶋大社へ伺うのは縁起物の招福金俵を授かるためでした。

ここで三嶋大社について調べてみました。ウイキペディアには以下の記述がありました。

三嶋大社(みしまたいしゃ、三島大社)は、静岡県三島市大宮町にある神社。式内社(名神大社)、伊豆国一宮、伊豆国総社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

概要

静岡県東部の伊豆半島基部、三島市の中心部に鎮座する。境内入り口の大鳥居前を東西に旧東海道、南に旧下田街道が走る。周辺は伊豆国の中心部として国府のあった地で、のちに三嶋大社の鳥居前町として発達、いつしか地名も大社に由来して「三島」と称されるようになったとされる。

社名の「三嶋」とは伊豆大島・三宅島等から成る伊豆諸島を指すと言われ、主祭神は伊豆諸島の開拓神である。当社は、古代には伊豆諸島の噴火を畏れた人々から篤く崇敬された。中世に入ると、伊豆国の一宮として源頼朝始め多くの武家からの崇敬を集めた。近世以降は三島が東海道の宿場町として発達したことに伴い、東海道を往来する庶民からも篤く信仰された神社である。

境内では本殿・幣殿・拝殿が国の重要文化財に、キンモクセイが国の天然記念物に指定されている。また社宝では、北条政子の奉納と伝わる国宝の「梅蒔絵手箱」を始めとして、多数の所蔵品が国の重要文化財や静岡県指定文化財に指定されている。

歴史

創建

伊古奈比咩命神社(下田市白浜)

三嶋神の後后の伊古奈比咩命を祀る。一説に三嶋神の旧鎮座地は伊古奈比咩命神社付近であるという。

創建は不詳。後述のように『延喜式』神名帳には伊豆国賀茂郡(伊豆半島南部・伊豆諸島)の所在と記載され、現在地(当時は田方郡)と相違することから、遷座説・郡名誤記説等の諸説が提唱されている。文献上で現在地の鎮座が確実なのは、『吾妻鏡』治承4年(1180年)の記事からである

現在通説として知られるのは、初め賀茂郡三島郷(伊豆諸島か)、のち賀茂郡大社郷白浜(伊古奈比咩命神社付近か)、さらに田方郡小河郷の伊豆国府(現社地)へと遷座(一説に勧請)したとする説である[9]。一方の郡名誤記説では、『延喜式』の記載を疑い、太古より当地に鎮座とする。以上のほか、「三嶋」の神名から伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)との関係を想定する説もある。

概史

古代

史料の初見は天平宝字2年(758年)で、「伊豆三島神」に対して10月2日に封戸9戸が、12月に封戸4戸が授けられている[9]。国史では天長9年(832年)の記事において、三嶋神・伊古奈比咩命神(伊古奈比咩命神社)の2神が地2,000町に神宮二院・池三処を作るなど多くの神異を示したとして、名神に預かっている。同記事の3日前の記事では、日照りの原因が「伊豆国神」の祟りであると記されているが、この「伊豆国神」は三嶋神・伊古奈比咩命神と同一神とする説もある

阿波命神社(東京都神津島村)

三嶋神の本后の阿波咩命を祀る。

『続日本後紀』の記事によると、承和5年(838年)7月5日夜に上津島(神津島)で激しい噴火が発生した。占いの結果、それは三嶋神の後后が位階(神階)を賜ったにも関わらず、本后たる阿波神(阿波咩命:阿波命神社)には沙汰がないことに対する怒りによるものだと見なされた。同記事では「後后」に関する具体的な言及はないが、これは伊古奈比咩命を指すとされる。この記事を受けて約一ヶ月後には、阿波咩命と物忌奈命(阿波神の御子神:物忌奈命神社)の神階が無位から従五位下に昇った

その後、三嶋神は嘉祥3年(850年)に従五位上の神階が授けられたのち、仁寿2年(852年)[原 10]に従四位下、天安3年(859年)に従四位上、貞観6年(864年)に正四位下、貞観10年(868年)に従三位が授けられた

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、伊豆国賀茂郡に「伊豆三島神社 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。また、『延喜式』主税寮によると、「三島神料」として2,000束が下されていた

承平年間(931年-938年)頃の『和名類聚抄』では伊豆国賀茂郡に「大社郷(おおやしろごう)」の地名が見えるが、これは伊豆三島神社・伊古奈比咩命神社に基づく郷名とされる

中世から近世

中世に入ると、三嶋社は伊豆国で一宮の地位に位置づけられたほか(初見は建武元年(1334年))、伊豆国の総社も兼ねたとされる。『伊豆国神階帳』(康永2年(1343年)以前成立)では「正一位三島大明神」と記載されている

源頼朝の三嶋神に対する崇敬は篤く、三嶋社に重ねて戦勝祈願と寄進を行なった。

『吾妻鏡』治承4年(1180年)の記事によると、源頼朝は挙兵直前に安達盛長に対して三嶋社への奉幣を命じ、その後伊豆北条氏と組んで目代の山木兼隆を討ち取った。また、頼朝は同年に平家軍との戦のため西に向かう際にも三嶋神を拝んだという。このような戦勝祈願に見えるように、三嶋社は源頼朝から篤く崇敬され、頼朝からは治承4年(1180年)10月に御園・河原谷・長崎の神領の寄進、元暦2年(1185年)6月に臨時祭料として河原谷・御園の寄進、同年8月には放生会料として糠田・長崎の寄進、文治4年(1188年)正月に参詣、建久6年(1195年)に神馬・剣の奉納が行われた。頼朝が開いた鎌倉幕府は、三嶋社を鶴岡八幡宮や二所権現(伊豆山神社・箱根神社)と並んで信仰している。頼朝以後も鎌倉幕府将軍は代々三嶋社に参詣しており、特に4代将軍・藤原頼経は最も多くの参詣を行なった

この時代、鎌倉幕府の将軍・御家人は東海道を従来の足柄越ではなく箱根越を利用した。これによって箱根路が活性化し、箱根手前に位置する三嶋社には数多くの旅人が参詣した。東海道の紀行文には必ず三嶋社のことが記されており、『東関紀行』の作者(未詳)や、竹崎季長(『蒙古襲来絵詞』上巻)、阿仏尼(『十六夜日記』『夫木抄』)、冷泉為相・飛鳥井雅有(『夫木抄』)、一遍(『一遍聖絵』)、後深草院二条(『とはずがたり』)などが参詣の様子を描写している。 南北朝時代に入り争乱が増えると、三嶋社では戦勝祈願を行う例が多く見られた。三嶋社は室町幕府・鎌倉公方からも篤い崇敬を受けたため、社領寄進が度々なされていた

戦国時代には当地を治めた後北条氏の保護を受け、後北条氏からは造営の支援も行われた。永禄11年(1568年)の甲相駿三国同盟解消に伴って当地は対武田氏の最前線になったため、度々兵火に遭ったとされる。後北条氏は積極的に三嶋社の造営を支援したが、それが後北条氏にとっての重荷になったともいわれる

江戸時代、江戸幕府からは文禄3年(1594年)に社領330石が寄進された(地割は神主100石、護摩堂25石、刑部大夫20石、在庁免25石、惣社人55石等)。慶長9年(1604年)にはさらに200石が加えられ、江戸時代を通じて計530石を有していた

近代以降

明治維新後、明治4年(1871年)に近代社格制度において官幣大社に列し、「三島神社」と称した。戦後は「三嶋大社」と改称し、神社本庁の別表神社に列している。

三嶋大社は歴史を感じ立派な本殿があり、また境内も広々としていてとても落ち着く神社でした。

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