五芒星巡り 2社目は赤坂氷川神社様です。今回初めて参拝させていただく神社様です。神田明神様からは東京メトロ新御茶ノ水駅から千代田線で赤坂まで移動しました。駅から徒歩で8分ほどで赤坂氷川神社様に到着します。
赤坂から六本木へ向かう途中にあるような位置関係になります。駅からビルの合間を縫うようにして目的地へ向けて歩きました。駅からは一旦さがりまたなだらかな坂を上がります。坂のつきあたりに石垣が見えました。石垣の向こうにはたくさんの樹木があるように見えました。「きっとあそこだ。」坂の突き当りに向かって歩き続けました。わたしたちの前方に2人の女性が歩いていました。その人たちが坂の突き当りの10mほど手前で右の方へ向かって立ち止まりました。私たちもその方たちに追いつき右手をみたら鳥居がありました。「ここだ。」鳥居からずっと奥に道が続いていてまた鳥居そして階段が見えました。わたしたちも鳥居をくぐり奥へと進みました。階段をもぼり切りましたが本殿が見当たりません。すでに来ていた方々が右手の方の建物の前にいらっしゃいました。「ここが本殿?」よくよく見ると山車の保管庫でした。外からも見えるようにガラス張りの立派な建物でいした。その奥の左側に塀が見えました。さらに左へ目を移すと鳥居や塀が見えました。そちらへ向かって進みました。鳥居、門をくぐり本殿に到着しました。天気も良くとても気持ちいがいい場所です。境内の樹木は結構おおきく夏の日差しを遮り涼やかな場所を作ってくれています。社務所で御朱印をお願いしお札を授かりました。今回の五芒星巡りでは5か所の御朱印とおみくじを引くことをきめました。社務所の前におみくじが数種類おかれていました。わたしたちは干支御籤を引きました。さっきまでわたしたち2人だけだった本殿周辺が急に人でにぎわってきました。若い女性のグループ、若い男女のグループ、ご家族連れ、中年の男性などなど なぜか奥さんが行くところは人が集まります。急に人の列ができたりすることが結構な頻度で起こります。「きょうもまた・・・」
赤坂氷川神社様について調べてみました。ホームページには以下の記述が掲載されています。
御由緒 沿革
氷川の名称の由来は、出雲国 簸川(現在の島根県斐伊川)にあるとされ、簸川の上流は御祭神 素盞嗚尊の「八岐大蛇退治(やまたのおろちたいじ)」の舞台と伝えられております。
当社の創祀は、天暦5年(951年)東国を遊行していた蓮林僧正が一ツ木村(現在の赤坂4丁目付近)で一夜を明かすと夢中で御祭神のお告げがあり、この地に氷川明神の社殿を建てお祀りをしたことにはじまります。これより凡そ100年後の治暦2年(1066年)の夏、関東一円に大きな旱魃(かんばつ)があり、苦しむ村人たちが社に雨乞いの祈願をするとたちまち雨が降りはじめ、その雨量は川ができるほどであったようです。以来よく神事が執り行われるようになります。
江戸中期の享保元年(1716年)、紀州徳川家の吉宗公が8代将軍職を継ぐにあたり、紀州藩の中屋敷が赤坂にあったことから、氷川明神への幕府の尊信は高まりました。
同14年(1729年)、吉宗公は老中水野忠之を総責任者に命じて現在地に社殿を造営しました。翌15年(1730年)4月26日に一ツ木村から現在地への遷座が行われ、28日には吉宗公直々のご参拝がありました。
以後14代将軍家茂公までの歴代将軍の朱印状が下付され、「厄除」「縁結び」の鎮守神としてより一層ご神徳を高められました。
明治元年、明治天皇より新しい首都東京の鎮護と万民の安泰を祈る「准勅祭社」に定められ、現在では「東京十社」の一社に数えられております。
御社殿は、安政の大地震、関東大震災、昭和20年(1945年)の東京大空襲など数々の災禍を奇跡的に免れ、創建当時の姿を現代に伝えており、昭和51年(1976年)に東京都の有形文化財(建築物)に指定をされております。また、豊かな緑に囲まれた境内には、江戸の年号が刻まれた石碑と灯籠、7対の狛犬など歴史を感じさせる遺産が数多く点在しています。
赤坂といえばTBS、高級料亭などのイメージがあります。しかし、このような静かな気持ちがいい場所がある事を知れてよかったです。参拝が終わり次の目的地へ移動しました。
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