五芒星巡り 神社編5

市谷亀岡八幡宮様の参拝を終えて築地の波除神社様へ向かいました。JR市ヶ谷駅から総武各駅で秋葉原まで行き、東京メトロ日比谷線に乗り換えました。秋葉原から築地までは地下鉄で10分程度で到着しました。奥さんはかなりお疲れモードでした。築地駅から元築地場内の方へ向かって歩きました。途中のベンチで座り少しのブレイクタイム。体力を回復させて波除神社様へ到着しました。

波除神社様の御由来がホームページに書かれていました。以下の通りです。

今から350年程前、この築地一帯は一面の海でした。江戸開府(1603)時の慶長江戸絵図には、今の日比谷のお堀の辺りまで汐入を描き、八重洲の海岸に船の役所が見えます。開府前より始まった江戸城西丸の増築に掘られた、お堀の揚げ土を以って日比谷入江から埋め始められた、江戸東南海面埋立は、その後全国の諸侯七十家に千石に一人の人夫を出させ、後にはその埋立の役員の名をとり、尾張町、加賀町等と名附けられました。
そして70年の後、明暦の大火の後に4代将軍家綱公が手がけた最後の埋立の工事困難を極めたのが、この築地海面でした。堤防を築いても築いても激波にさらわれてしまうのです。

或夜の事、海面を光りを放って漂うものがあり、人々は不思議に思って船を出してみると、それは立派な稲荷大神の御神体でした。皆は畏れて、早速現在の地に社殿を作りお祀りして、皆で盛大なお祭をしました。ところがそれからというものは、波風がピタリとおさまり、工事はやすやすと進み埋立も終了致しました。萬治2年(1659)の事です。

人々は、その御神徳のあらたかさに驚き、稲荷大神に 『波除』 の尊称を奉り、又雲を従える<龍>、風を従える<虎>、一声で万物を威伏させる<獅子>の巨大な頭が数体奉納され、これを担いで回ったのが祭礼 『つきじ獅子祭』 の始まりです。

それ以来今に至るまで、「災難を除き、波を乗り切る」 波除稲荷様として、災難除・厄除・商売繁盛・工事安全等の御神徳に崇敬が厚いのであります。その御神徳はその後も益々大きく、当時辺境の地であった築地も次第々々に開け、現在の如く繁華街となったのであります。

本殿の右手に社務所がありました。社務所で御朱印とお札を授かりました。境内を見ると若いカップル、私たちと同年代の女性グループなどにぎわっていました。50代くらいの男性がひとりで写真を撮っていました。奥さんが行くところはすぐににぎわってきます。今日、お昼に立ち寄ったカフェでも同じようなことが起こりました。奥さんはこちらの絵馬が気に入ったようでした。錨を描いた絵馬です。

波除神社様の境内にはいくつかの石碑がありました。「玉子塚」「鮟鱇塚」「すし塚」「海老塚」「活魚塚」「魚がし碑」「蛤石」などがありました。また、境内に入ってすぐ右側に吉野家の石碑がありました。吉野家の発祥地は築地であることを思い出しました。

また、ウイキペディアには波除稲荷神社様の記述がありました。

波除稲荷神社(なみよけいなりじんじゃ)とは、東京都中央区築地六丁目にある神社。倉稲魂命(うかのみたまのみこと)すなわち稲荷神を祭神とする稲荷神社の一つ。

氏子地域は築地の全域(一丁目~七丁目)である。

創建

江戸時代の明暦の大火後、当時はまだ江戸湾が入り込んでいた築地の埋め立て工事が行われたが、荒波の影響で工事は難航した。その最中のある晩、光を放ち海面を漂う御神体が見つかり、万治2年(1659年)、現在地に社殿を建て祀った。その後、波が収まり工事が順調に進んだことから、「波除稲荷」と尊称して厄除けなどに信仰を集めることとなった。

建造物

  • 社殿(昭和12年完成、唯一神明造)
  • 獅子殿(厄除天井大獅子)
  • 弁財天社(お歯黒獅子)
  • 末社
  • おきつね様
  • すし塚
  • 海老塚
  • 鮟鱇(あんこう)塚
  • 活魚塚
  • 玉子塚
  • 昆布塚
  • 蛤石
  • 吉野家碑

築地市場に近いため、そこで売買された魚介類や玉子(卵焼き)などに感謝し、霊を慰めるための塚・石が多い

 

築地の波除神社様の参拝を終えて時刻は午後三時半ごろとなっていました。5か所の神社様を参拝しスタート地点の神田明神様へ戻り、五芒星を完成させることとなります。結構、疲れましたが神田明神様へ向けて出発。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました