五芒星巡り 神社編6

築地の波除神社様の参拝を終えてスタート地点の神田明神様へ向かいました。東京メトロ日比谷線の築地駅から秋葉原駅へ行きJR秋葉原駅で総武各駅に乗り換えてお茶の水駅へ。駅から徒歩で10分もかからずに神田明神様へ到着。時刻は16時半ごろ。本殿で五芒星巡りの完了を報告しました。その後、御朱印を賜り1日で5社を巡った証しとしました。

境内のベンチで休憩していたら敷地内にある明神会館の入り口付近から神主様や巫女様が出てきました。また、笙や笛をもった神官様もいらっしゃいました。ほどなく紋付き袴の若い男性、続いて角隠し白無垢の女性の姿が見えました。「結婚式」奥さんは「神様に歓迎されているね。」とにこやかに笑いました。その後、御親族らしき方々が続き明神会館から本殿へ移動されました。たまたま参拝に来ていた外国人観光客がスマホで撮影していました。しばらくすると今度はスズメが近くにやってきました。人に慣れているのかかなり接近しても逃げません。敷地内で見かける動物たちは神様のお使いであることがあるらしいです。

五芒星巡りが完了して達成感がありました。移動は地下鉄、電車で行いましたがかなり疲れました。駅から歩く距離は遠くても10数分程度であったが、足腰に結構疲労感がありました。

その日の夜は餃子とビールで乾杯しました。「お疲れ!」久々のビール。さらに達成感もあり、夏ののどの渇きもあり飲食店さんで飲む生ビールは最高でした。

今回、都内でこじんまりした五芒星巡りを実施しました。奥さんはより大きな五芒星巡りを考えています。東京にと留まらず首都圏で五芒星を完成させようと考えています。武蔵の国一宮 大宮氷川神社様は参拝したい有力候補です。氷川神社様にはウイキペディアに以下の記述がありました。

氷川神社(ひかわじんじゃ)は、埼玉県さいたま市大宮区高鼻町にある神社。式内社(名神大社)、武蔵国一宮(または三宮)、勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。宮中の四方拝で遥拝される神社の1つ。

東京都・埼玉県近辺に約280社ある氷川神社の総本社である。他の氷川神社と区別する際は「大宮氷川神社」とも呼ばれる。

概要

埼玉県・東京都の荒川流域、特に旧武蔵国足立郡を中心にして氷川信仰に基づく氷川神社が多数分布しており、当社はその中心である。「大宮」の地名は、当社を「大いなる宮居」と称えたことに由来する普通名詞から転じたものである。埼玉県周辺の広域から参拝者を集め、正月三が日の初詣の参拝者数(警察調べ)は全国10位以内に数えられる。特に全国的に初詣客が増加した2008年(平成20年)以降は毎年200万人以上が訪れている

神社の境内は、見沼(江戸時代中期まで存在した広大な沼)の畔に位置し、もとは見沼の水神を祀っていたと考えられている。神社の南側に広がる神池(かみいけ)は、神社の西側から涌き出た地下水が溜まったものであり、かつて見沼の一部であった。神社に隣接する埼玉県営大宮公園は、明治期に神社周辺の森を取得して整備したものであり、神社のある小山を見沼の入江が囲んでいた、という地形の特徴をよく保存している。

大宮の氷川神社、見沼区中川の中氷川神社(現 中山神社)、緑区三室の氷川女体神社は、いずれも見沼の畔にあり、かつ一直線に並んでいる。この三氷川とかつて大宮の氷川神社境内にあった三社(男体社・女体社・簸王子社)がよく混同されるが、別のものである

祭神

現在の主祭神は次の3柱。

  • 須佐之男命(すさのおのみこと)
  • 稲田姫命(いなだひめのみこと)
  • 大己貴命(おおなむちのみこと)

現在の祭神は、1833年(天保4年)当時の神主・角井惟臣が著した『氷川大宮縁起』に拠る。

祭神の変遷

祭神がどの神であるかは、以下のように多くの議論がなされてきた[4]。平安時代中期の『延喜式神名帳』では一座として記載されている。

  • 日本武尊の東征時、須佐之男命を勧請したとする説(吉田兼永)。
  • 須佐之男命とする説(『大日本神祇史』)。
  • 男体社:須佐之男命(相殿に伊弉諾、日本武尊、大己貴)、女体社:奇稲田姫命(相殿に天照太神宮、伊弉冉、三穂津姫、弟橘媛)、簸王子社:大己貴とする説(『新編武蔵風土記稿』[5])。
  • 男体社:伊弉諾、女体社:伊弉冉、簸王子社:軻遇突智とする説(『大宮氷川太明神縁起之書』)。

また、神奈川県では大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)様。大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)は、ホームページで以下の通り由緒が記載されています。今から二千二百余年以前の人皇第十代崇神天皇の御代に創建されたと伝えられている式内社でございます。 古くから相模国は許より関東総鎮護の霊山としてご崇敬を集めて参りました。海抜一二五二米の山頂からは、祭祀に使われたと思われる縄文土器が出土しており、当山の歴史の古さを物語っております。
大山は、別名「あめふり山」とも呼ばれ広く親しまれてきました。このあめふりの名は、常に雲や霧が山上に生じ、雨を降らすことから起こったと云われ、古来より雨乞い信仰の中心地としても広く親しまれて参りました。
奈良時代以降は神仏習合の霊山として栄え、延喜式にも記される国幣の社となりました。そして、武家の政権始まった後も源頼朝公を始め、徳川家等の代々の将軍は当社を信仰し、そして武運長久を祈りました。庶民からの崇敬も厚く、人々は「講」という組織を作り挙って大山へ参拝をしました。隆盛を極めた江戸期には年間で数十万が訪れたと記録されています。「大山詣り」と呼ばれた当山への参詣は古典落語の中でも語られ、著名な浮世絵師によって多くの浮世絵も残されています。そうした作品に描かれた躍動感溢れる人々の姿からも、いかに大山が当時の人々にとって身近な存在であったかを窺い知ることが出来ます。
また人気を博した大山詣りを背景に、多くの独特な文化が生み出されたことも大山の特徴です。源頼朝公が刀を納めた事から起こった木太刀を納める納太刀、当社の御祭神が富士山の御祭神である木花咲耶姫の父君に当たることから「富士に登らば大山に登るべし、大山に登らば富士に登るべし」と伝えられ、大山と富士山の両山をお参りする「両詣り」も盛んに行われました。一部地域では、大山に登れば一人前として認められると伝承されていたとも云われ、立身出世の神としても知られています。他にも一年の天候を占い農作物の豊凶を占う筒粥神事、天地の魔と穢れを祓う引目祭、夏の山開き、火祭薪能などの多種多様な神事が現在も行われ、三百年以上の伝統を誇る大山固有の大山能、そして巫女舞、倭舞も今に継承されております。
阿夫利神社は、古代から人々の心の拠り所となり、国を護る山・神の山として崇められてきました。
山野の幸をつかさどる水の神・山の神として、また、海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには、大漁の神として信仰をあつめると共に、山岳信仰の中心として、今日に及んでいます。
春は花、夏は新緑、秋は紅葉、冬は雪と四季折々に彩られるこの大山は今もなお、伝統と文化を継承し続け、参拝をする人が絶えません。
平成二十八年四月には「大山詣り」が日本遺産に認定をされました。

行ってみたい神社仏閣はまだまだたくさんあります。奥さんとの合言葉は「行けるときに行っておこう!」いつか行こうと思っていてもあっという間に時は過ぎます。今後の決まている予定は箱根神社様、長野の諏訪神社様、それから京都 上賀茂神社様、三十三間堂、伏見稲荷神社様。行けるときに行くですよ。

 

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