人日の節句

1月7日は人日の節句です。この節句の事はつい最近まで知りませんでした。たまたま9月9日の重陽の節句について調べていた時に知りました。数字の奇数は「陽」、偶数は「陰」という古代中国の考えがもととなり、奇数が重なる日を特に縁起が良い日としたのがことの由来のようです。具体的には1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日となります。1月1日は元日で特別な日。3月3日は桃の節句、5月5日は端午の節句、7月7日は七夕、9月9日は重陽の節句となります。1月1日は先に述べましたように特別な日となるため1月には1月7日の人日の節句が設けられたそうです。

では1月7日 人日の日とは・・・ウイキペディアには以下の記述があります。

人日(じんじつ)とは、五節句の一つ。1月7日。七草がゆを食べることから七草の節句(ななくさのせっく)ともいう。

また、霊辰(れいしん)、元七(がんしち)、人勝節(じんしょうせつ)ともいう。

風習

七草粥(ななくさがゆ)

古来中国では、正月の1日を鶏の日、2日を狗(犬)の日、3日を猪(豚)の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにしていた。そして、7日目を人の日(人日 (中国)(中国語版、英語版))とし、犯罪者に対する刑罰は行わないことにしていた。

また、この日には一年の無病息災を願って、また正月の祝膳や祝酒で弱った胃を休める為、7種類の野菜(七草)を入れた羹(あつもの)を食する習慣があり、これが日本に伝わって七草がゆとなった。日本では平安時代から始められ、江戸時代より一般に定着した。人日を含む五節句が江戸幕府の公式行事となり[1]、将軍以下全ての武士が七種粥を食べて人日の節句を祝った。

また、この日は「新年になって初めて爪を切る日」ともされ、「七種を浸した水に爪をつけて、柔かくしてから切ると、その年は風邪をひかない」とも言われている。

なお、経緯からわかるように、本来は1月7日 (旧暦)の風習である。

 

また、1989年1月7日は、 昭和天皇(第124代天皇(* 1901年誕生)が崩御された日でもあります。1989年は昭和64年であり平成元年でもあります。

1996年1月7日には芸術家の岡本太郎さんが亡くなった日でもあります。岡本太郎さんについて少し調べてみました。岡本太郎記念館のホームページに以下の記述があります。

【1】パリが生んだ異端

〈1-1〉 極東の日本から世界の芸術の中心に

1929年、岡本太郎は18歳でパリに渡った。日本から遊学する画家達が日本人だけで固まり、帰国後の凱旋展を夢見てお定まりの風景画を描いている姿に失望した太郎は、フランス社会で自立したいと考え、私学の寄宿生となってフランス語を磨き、西洋の教養を身につけていく。やがてモンパルナスにアトリエを構え、1940年にパリを離れるまで10年以上にわたって1930年代のパリで唯一無二の経験を重ねた。

 

〈1-2〉 純粋抽象からシュールレアリスムへ

1933年、「アプストラクシオン・クレアシオン協会」に最年少メンバーとして参加。「空間」「コントルポアン」などの連作を発表。1937年、サロン・デ・シュールアンデパンダンに「傷ましき腕」を出品。純粋抽象と決別し、同協会を脱退する。一方、同作をアンドレ・ブルトンが高く評価、翌年の第一回国際シュールレアリスト・パリ展に招待する。エルンスト、ジャコメッティ、マン・レイ、タンギーらシュールレアリストとの親交が深まる。岡本太郎は二つの前衛芸術運動の最先端をともにリアルタイムで体験した希有な芸術家なのである。

 

〈1-3〉 ミュゼ・ド・ロムでマルセル・モースに学ぶ

1938年、パリ大学で哲学を学んでいた太郎はミュゼ・ド・ロムを見て衝撃を受け、民族学科に移籍。レヴィ=ストロース、ミシェル・レリスらとともにマルセル・モースに学び、一時は筆を折って研究に没頭する。このときの体験が「芸術は商品ではない」「芸術は無償、無条件であるべきもの」「芸術とは全人間的に生きること」という太郎の芸術観を醸成した。1975年、太郎はジャン・ルーシュのドキュメンタリー作品「マルセル・モースの肖像」に出演。

 

〈1-4〉 バタイユとの邂逅

一方、エルンストに誘われた政治集会「コントルアタック」でジョルジュ・バタイユと出会い、その演説に深く共感。以後、親交が深まり、「社会学研究会」に参加。ついには秘密結社「アセファル」に加わる。戦後の作品「夜」「電撃」はこのときのサンジェルマンの森での秘儀体験がモチーフといわれる。レリス、ロジェ・カイヨワ、ピエール・クロソウスキー、パトリック・ヴァルドベルグら、世界的な知性と親密な交友を結ぶ。

 

〈1-5〉 ただひとりの日本人

抽象からシュールレアリスムへ。芸術から哲学へ。抽象論理の世界から人間学のフィールドへ。さらには呪術的な秘密結社へ。岡本太郎は、20世紀芸術の新たな潮流の胎動に生々しく立ち合い、同時に30年代パリが生んだ知の最前線を全身で浴びた、たったひとりの日本人である。それどころか、こんな人物は世界を見渡してもおそらく例がないだろう。岡本芸術に通底する美意識は「自由」「誇り」「尊厳」だ。太郎の肉体にそれを刻んだのは30年代のパリだった。

【2】たったひとりの闘い

〈2-1〉 ゼロからの出発

  1940年、岡本太郎は戦時体制下の日本に帰還する。間もなく初年兵として徴兵されて戦場へ。自由の国・フランスから対極的な軍国主義の闇に投げ込まれる。戦後、中国での収容所暮らしを経てやっと辿り着いた青山の家は空襲で焼け野原になっていた。アトリエもパリ時代の作品も、すべてを失った。待っていたのは文字通りゼロからの出発だった。

 

〈2-2〉 “ガラパゴス”での闘い

  活動を再開した岡本太郎は新聞紙上に「絵画の石器時代は終わった」と宣言。ただ鑑賞するだけの「美術」の時代は終わった、西欧の芸術精神が獲得した自由の恩恵を受ける時代が来たのだ、と続け、長老中心の権威主義的な日本美術界にひとり宣戦布告する。ワビ・サビ的美学に支配されていたガラパゴス的美術界に強烈な原色を叩きつけるとともに、出版や講演などの啓蒙活動も積極的に開始。芸術とはなにか、アヴァンギャルドとはなにか、創造とはなにか。革新的な名著を次々と発表し、挑発的な言動で社会に問題を提起していった。

 

〈2-3〉 対極主義

  「これからのアヴァンギャルド芸術の精神には、非合理的な情熱のロマンティスムと、徹底した合理的な構想が、激しい対立のまま同在すべきである。この異質の混合や融和を私は考えない。二つの極を引き裂いたまま把握する」。「対極主義」と名付けたこの芸術思想を引っさげ、岡本太郎は次々と問題作を社会に送り出す。日本での活動再開後すぐに「重工業」「森の掟」などの大作を続々と発表し、アヴァンギャルドのリーダーとして美術界に旋風を巻き起こしていった。

 

〈2-4〉 日本の“発見” 

  一方、作品制作の傍らで、「日本のオリジン」「日本の原風景」の探索に傾倒し、革命的な仕事を成し遂げていった。「縄文の発見」がその代表である。考古学の分析対象でしかなかった縄文土器に美を見出し、芸術のフィールドに引き上げるとともに、その精神のありようを称賛した。さらに日本全国を縦断取材し、民族学の視点から各地に息づく日本の原風景を読み解いていった。近年、彼が撮影した写真は当時の貴重な民俗資料として再評価され、各地の伝統・風俗をテーマにした数々の文化論も再び脚光を浴びている。彼が発見した日本の原風景が普遍的な世界とつながっているからだ。

 

〈2-5〉 「多面体」として

  1950年代に入ると、岡本太郎は次々と表現領域を拡げていった。彫刻、レリーフ、壁画、舞台美術、グラフィックデザイン、プロダクトデザイン、書、建築、家具、インテリア、写真、評論、パフォーマンス……etc。銀座の夜空にヘリコプターで絵を描いてみせたのも、日本ではじめて飛行船に絵を描いて飛ばしたのも、岡本太郎だった。岡本太郎は、日本の芸術家では類を見ない「多面体」だった。

【3】万博史の異物

〈3-1〉 史上最大の万博

  1970年、高度経済成長に湧く日本で万博が開かれた。〝先進国クラブ〟への入会がかかった一世一代の国家プロジェクト。そのテーマ展示プロデューサーに選ばれたのが岡本太郎だった。彼は高さ70mの巨大なモニュメント「太陽の塔」を会場中央に突き立てる。その強烈かつ異様な光景は日本人の脳裏に強烈に刷り込まれ、日本の芸術作品のなかで最大・最強のアイコンになった。同時代を生きた日本人で岡本太郎と太陽の塔を知らぬ者はいない。大阪万博は6400万人の入場者を集めたが、これは万博史上の最高記録で、いまも破られていない。

 

〈3-2〉 反博の巨像

  19世紀半ばに誕生して以来、万博は近代主義を体現するものとして「技術と産業の進歩が人類を幸せにする」をメッセージしてきた。だが太陽の塔はそれを真っ向から否定している。太古の昔からそこに立っていたような土俗的な造形は、〝近未来都市〟の風景をひとりでぶち壊すものだ。岡本太郎は万博を支える安直な進歩主義にひとりNon!をつきつけた。前衛が国家に加担するのかと批判された彼はこう言って笑った。「反博?なに言ってんだい。いちばんの反博は太陽の塔だよ」。太陽の塔は万博史に残るただひとつの異物だ。

 

〈3-3〉 反モダニズム・反伝統主義

  岡本太郎は「日本人の価値基準は二つしかない。西欧的近代主義と、その裏返しとしての伝統主義すなわち〝わび・さび〟的日本調だ」と言った。「その両方を蹴飛ばして、原始と現代を直結させたような、ベラボーな神像をぶっ立てた」。それが太陽の塔だ。まさしく対極主義の実践だった。彼は「五重の塔ではない日本。ニューヨーク、パリの影でない日本」をつくろうとした。岡本太郎は日本人を奈良時代から続く文化コンプレックスから解放しようとしていたのである。

 

〈3-4〉 ミュゼ・ド・ロムへの思い

  一方、岡本太郎がプロデュースしたテーマ展示も異端だった。「人類の進歩と調和」というテーマを解説する職責を担っていたはずなのに、テーマ展示の予算とスペースのほとんどを生命の誕生から原始社会の営みまでを描くことに費やしたのだ。他館が未来技術でプレゼンスを競っているときに、生命の誕生、祈り、渾沌などを謳い、世界から仮面や神像を集めて呪術的な展示空間を現出させた。「万博の価値観なんか信じるな」「人間の根源に帰れ」というメッセージを送るためだった。そして裏にはもうひとつの動機があった。日本版ミュゼ・ド・ロムをつくることだった。実際、万博から7年後に、このときの収集資料がベースになって国立民族学博物館が誕生した。

 

〈3-5〉 愛された前衛

  太陽の塔は大阪万博のシンボルとなって日本人の脳裏に深く刻まれた。当時を生きた日本人で岡本太郎を知らぬ者はいない。大衆に愛された太郎はその後も全国で数々のパブリックアートを手掛け、1975年には撤去されるはずだった太陽の塔の永久保存が決まった。市民の保存運動が実を結んだのだ。岡本太郎は日本でただひとり大衆にリーチした前衛芸術家だった。

日付にちなんでネットで検索してみると意外なものに繋がることがあります。今後もいろいろ調べてみないと思います。

 

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