大雄山 最乗寺 ②

結界門をくぐると右手の斜面の上に御真殿が見えます。正面には何やら岩の塊?その左側には石段が見えます。その石段を上ると岩の塊の裏側へ行けるようです。御真殿へは右手にある石段(御真殿正面からまっすぐ続く石段)でも左側に見える石段でも行けるようでした。左側の石段の方が緩やかなので左側へ行きました。岩の塊の裏側にはお堂がありました。三面大黒天様のお堂となっていました。三面大黒天様は京都の圓徳院で太閤秀吉ゆかりの三面大黒様に参拝しました。京都の圓徳院ではレプリカが展示されていてご本体にはお会いできませんでした。しかし、最乗寺の三面大黒天様は結構な大きさでしたし、見ていると圧力を感じるようでした。わかる人が見たら結構すごいパワーがある像なのではないかなと思いました。お堂の斜め前にはベンチがあり、小休憩ができました。奥さんの体調も良くなっていたようで写真を結構とっていました。奥さんはなんとなく精霊や眷属 普通には見えない存在を感じるようになってきたみたいです。奥さんが撮る写真には不思議な光が映りこむことがあります。以前は偶然に映りこむことが多かったのですが、最近は精霊や眷属がいるような場所をとると不思議な光が映りこんでいるようです。意図して撮っているようです。三面大黒天様の奥さんの感想は「京都の圓徳院より、こっちの方がすごい。」と言っていました。

参道をさらに登り御真殿の左奥の方へ出ました。大きな下駄がいくつも奉納されています。大企業が奉納した鉄製の下駄もありました。

御真殿はとても力強いパワーを感じました。歴史のある建物である事だけではない、また違った威厳を感じました。御真殿の脇にはお守り札御受け所があります。

大天狗、小天狗、不動明王のおみくじがあります。結構かわいい縁起物として自宅に飾りました。

結界門を守ている大天狗、小天狗は怖い感じですが、縁起物はかわいいです。

金剛水堂でお水を頂きました。パワーがありそうなのでペットボトルに入れてきました。水筒に入れて持って帰っている方も見かけました。

その後、境内にあるベンチでしばし休憩。新宿駅のセブンイレブンで購入したおにぎりなどを食べてました。そのうち境内にどんどん人が増えてきました。奥さんはいく場所には人が増える現象がここでも発動しました。最乗寺もやはり氣のいい場所でした。

最乗寺のことについてホームページで書かれていることをアップします。

南足柄市には、道了さんと呼ばれている大きなお寺の、大雄山最乗寺があります。今から600年以上前、応永元年(西暦1394)3月10日、了庵慧明禅師という、和尚さんが建てたお寺です。了庵慧明禅師は、現在の神奈川県伊勢原市で生まれ、子供のころから、本を読むことや字を書くことがすきで、昔の学校のお寺さんで一生懸命勉強をして、お坊さんになることを決意しました。  鎌倉市にある、建長寺という大きなお寺でお坊さんになり、偉いお坊さんや、先輩のお坊さんからいろいろなことを教えてもらい勉強をして、現在の京都府や、石川県のお寺などで厳しい修行をして、石川県能登半島にある、總持寺という大きなお寺の一番責任の重いお坊さんになり名前も、了庵慧明禅師となりました。名前の最後に禅師と付くのは修行をして、多くの人から尊敬をされ、慕われる和尚さんで朝廷(天皇が政治を行う所)から贈られる名前です。了庵慧明禅師さんは、總持寺で多くのお弟子さんを育てお弟子さん達に、總持寺のことはまかせられると、57歳の時に生まれ故郷に近い小田原市の上曽我という所にある、竺土庵という小さなお寺に住み近所の人達にためになるお話をして聞かせていました。
あるとき、お坊さんが一番大切にしている、袈裟という着る物を干していたら、大きな鷲が飛んできてその袈裟をつかみ、足柄平野を飛び越えて行き明神ヶ岳の方に飛んで行きました。
了庵慧明禅師さんは、大切な袈裟を取られては大変と、お弟子さんや近所の人達と、鷲のあとを追いかけて、明神ヶ岳の林の中にくると、大きな松の木の高いところに袈裟が掛っていたが取ることができません。
そこで、了庵慧明禅師さんは、石の上で坐禅をしていたら不思議に袈裟が落ちてきて、了庵慧明禅師さんの肩にふわりとかかりました。了庵慧明禅師さんは、このお山にお寺さんを建てることを決意しました。了庵慧明禅師さんが、能登半島の總持寺にいる時に、大きな身体の山伏の格好をした人が了庵慧明禅師和尚さんを訪ねて来て「弟子にしてください」と、お願いをしました。
弟子にして下さいときた人は名前を、相模坊道了といい、奈良県や、和歌山県の山奥で山伏として修行をして、普通の人では出来ないことを身に付けた修験者でした。
相模坊道了さんは、了庵慧明禅師和尚さんを大変尊敬していてどうしても弟子になりたくて、和歌山県の山奥から石川県の總持寺までやってきました。
了庵慧明禅師和尚さんから、お坊さんになる資格をもらい弟子になりました。弟子になった道了さんは、お坊さんとしての辛い、厳しい修行をかさね、更に修行をするために、滋賀県の大津市にある三井寺と云うお寺に入り、山伏の時の経験を生かした修行をして、たくさんのお弟子さんを育てていました。
お師匠さんの、了庵慧明禅師和尚さんが、相模国足柄にお寺を建てることを知り、弟子たちに別れをつげて、山伏の時に身につけた力を発揮して山を越え、野を走り、一日で了庵慧明禅師和尚さんのもとに駆けつけました。

道了さんはお寺を建てる総責任者として、特に土木工事では500人力の力を発揮して大活躍をしました。
◆お名前
「相模坊道了尊者」 山伏時代の名前
「妙覚道了尊者」 お坊さんの時の名前
「道了大権現」 最乗寺の守護神 道了さんは、十一面観音菩薩という、仏様が姿を変えてこの世に、現れた・・・との伝説があります。
「妙覚道了大薩埵」 明治時代以降の名前 最乗寺の境内にある、御真殿(妙覚宝殿)という建物に祀られています。中には大きな天狗さんがいます。
◆生まれた所
分かりませんが、相模坊と名乗っているので、了庵慧明禅師と同じ相模と言われています。
◆生まれた年
分かりません。
◆得意なこと
土木工事、最乗寺を建てる時、怪力を発揮して、大きな岩を砕き、大きな木を倒し、土地を平にしてお寺を建てるもとをつくりました。
◆性格
身体は大きいが、気は優しく、頭が良く、お寺の決め事を守り、修行するお坊さん達にも守らせていた。
◆実際にいたお坊さん
最乗寺の宝物館に、道了さんが書いた掛け軸が残されています。

最乗寺には天狗にまつわる伝説があります。・・・山々を守護し、人々から畏れ敬われて来た天狗。日本には数々の天狗に関する伝説がありますが、最乗寺と天狗との関係は、開山の歴史に由来しています。境内には様々な天狗様や、天狗の下駄という意味合いで、世界一と言われる下駄をはじめ、大小さまざまな下駄が奉納されています。了庵慧明禅師の弟子だった道了尊者は、師匠の了庵慧明禅師が最乗寺を建立することを聞いて、近江の三井寺から天狗の姿になって飛んできて、神通力を使って谷を埋めたり、岩を持ち上げて砕いたりして寺の建設を手伝いました。そして了庵慧明禅師が75歳でこの世を去ると、寺を永久に護るために天狗の姿に化身して舞い上がり、山中深くに飛び去ったといわれ、以来、寺の守護神として祀られています。

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