諏訪大社様3

春宮様の西側に砥川が流れています。その川の浮島に末社「浮島社」があります。このお社はどんなに大雨となっても流されないというお社だそうです。ご利益ありそうです。その浮島からさらに進むと「万治の石仏」があります。万治が「よろずおさまる」と読み替えることができる事から、コロナウイルス感染拡大の近年、人気を博しているそうです。ウイキペディアではこんな記述があります。

万治の石仏(まんじのせきぶつ)は、長野県諏訪郡下諏訪町東山田字石仏にある、江戸時代前期の1660年(万治3年)に造られた石仏。所有者は下諏訪町で、同町の指定有形文化財に指定されている(昭和57年(1982年)3月26日指定)。砥川を挟み、諏訪大社下社春宮の対岸に位置する。所在地の小地名「石仏」も同石仏に由来する。

1970年代に芸術家の岡本太郎が紹介したことで日本全国に広く知られるようになった。

「万治の石仏」は下諏訪商工会議所が権利者の登録商標でもある。

概要

「万治の石仏」の名の由来である胴体脇の銘「南無阿弥陀仏 万治三年十一月一日 願主 明誉浄光 心誉慶春」

高さ2.6メートル、幅3.8メートル、奥行き3.7メートルの安山岩をそのまま胴体とし、その上に高さ約65センチメートルの仏頭を載せた石仏である。胴体正面には定印を結んだ阿弥陀如来の坐像が彫られる。衣の上には向かって右から右卍、太陽・雷・雲・磐座・月など密教の曼荼羅が刻まれ、これらは弾誓に始まる浄土宗の一派による「同体異仏」(一体の仏像に阿弥陀如来と大日如来を共存させる)の表現とされる。

江戸時代の史料には「えぼし石」や「みたらしの石仏」の名称で記録されており、地元の人々からは「あみだ様」と呼ばれてきた。

「万治の石仏」という名が生まれ、また全国的に知られるようになったきっかけは、1974年(昭和49年)に岡本太郎が御柱祭を見るために下諏訪町を訪れたことにある。当時同町で製菓業を営んでいた矢ヶ崎孫次が岡本を案内して石仏を紹介した際、仏像に名前がないことを忍びないと考えて胴体向かって左脇の銘にある「万治三年十一月一日」から採って命名したもので、矢ヶ崎は4年後の1978年(昭和53年)3月10日に自身の趣味の一環として「万治の石仏」を商標登録している。そして石仏を鑑賞した岡本がこれを絶賛して全国紙のコラムなどに掲載したこともあり、「万治の石仏」の知名度は上昇して全国的な観光名所となっていった。また、上諏訪町(現・諏訪市)出身の小説家・新田次郎も万治の石仏を賞賛しており、同仏像はイースター島の石人の頭部が日本へもたらされたものとする大胆な想定を基にして小説『万治の石仏』を著している。

2019年(令和元年)以降の新型コロナウイルス感染症拡大下にある近年は「万治」が「よろずおさまる」に通じることから注目が高まっており、石仏がモチーフの関連グッズの人気が高まっているという。

伝承

「万治の石仏」には、造立にまつわる以下の伝承がある。

1657年(明暦3年)に第3代諏訪高島藩主の諏訪忠晴から諏訪大社下社春宮に石の大鳥居を立てるよう命じられた石工が、現在石仏となっている大石を材料にしようと鑿を入れたところ、そこから血が出てきたため祟りを恐れて作業を中止した。その晩に夢枕で上原山(現在の茅野市)に良い石材があると告げられた石工が探しに行くとその通りであり、同山の石で鳥居を造る代わりに大石を阿弥陀如来として祀ったという。石仏に残る鑿の跡はその時のものとされる。

伸びる首

1991年(平成3年)8月に一度頭部が落下したため支柱で固定し修復したが、その後、ある写真家が毎年撮った写真を見たところ、首が伸びていることがわかった。2007年(平成19年)にテレビ番組で紹介され、観光客も増えたが、下諏訪観光協会は「周辺の安全確保」ためとして再修復することとし、2008年(平成20年)3月4日に修復作業が行われ、頭部の下から水や泥、賽銭25円が発見された。首が伸びた原因は、以前の修復時に設けた支柱に水が溜まり、氷になって斜めになり、その繰り返しで頭部が上昇したとされる。修復前に測定したところ、正面で4cm、左右は6~7cm上昇していた。

胴体の大きさと頭のサイズのアンバランスが何とも言えないユーモラスなお姿をされていいます。

 

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