諏訪大社様5

4つの立派な社から成り立つ諏訪大社様の御参拝を終えていろんな事を考えました。なぜに4社も必要であったのか?

神社の起源に関しては様々な説話が語られている。

『古事記』『先代旧事本紀』では、天照大御神の孫・邇邇芸命の降臨に先立ち、建御雷神が大国主神に国譲りするように迫ったとされています。これに対して、当時の日本の統治者である大国主神の次男の建御名方神が国譲りに反対し、建御雷神に戦いを挑んだが負けてしまい、諏訪まで逃れました。そして、以後は諏訪から他の土地へ出ないこと、天津神の命に従うことを誓ったとされる。説話には社を営んだことまでは記されていないが、当社の起源はこの神話にあるといわれている。なお、この説話は『日本書紀』には記載されていない。

一方で、地元の諏訪地域に伝わる神話では建御名方神(諏訪明神)が諏訪に侵入した征服者として描かれています。これによると先住神の洩矢神(守矢氏の遠祖)が建御名方神と対抗しようとして戦いを挑むも敗れ、最終的に諏訪の統治権を建御名方神に譲ったと言われている。またもうひとつの伝承によると、諏訪明神が8歳の男児に自分の装束を着せつけた後に「我に体なし、祝(ほうり)を以て体とす」と告げて自分の身代わり(神体)として認定した。この少年はやがて守屋山麓に社壇(後の上社)を構えて上社大祝を務める神氏(諏訪氏)の始祖となったと言われている。

以上はあくまでも神話の域を出ないが、これを基に先住の勢力(守矢氏)の上に外から入った氏族(上社の神氏・下社の金刺氏)によって成立したと考えられている。諏訪一帯の遺跡分布の密度・出土する土器の豪華さは全国でも群を抜いており、当地が繁栄していた様子がうかがわれる。縄文の時代から諏訪エリア一帯は大変栄えていたようです。以前、NHKのぶらタモリで諏訪の特集がありました。このエリアは良質の黒曜石が豊富に取れたようです。また、その当時の日本の気候は今よりも気温が高いようです。さらに東京、神奈川、千葉 首都圏の海岸線は今よりももっと内陸になっていたようです。さらに九州や富士山で噴火により火山灰がたくさん積もるようなことが起きていたようです。関東方面の民はより内陸へ向かったようです。諏訪エリアにひとが集まっていたと想像できます。また、狩猟にはより高性能な武器が必要です。それが黒曜石です。殺傷能力の高い武器を黒曜石を使い作ったのです。

古代の日本はもともといた神である国津神と後から来た天津神との権力争いがありました。結果としたは後からきた天津神の勝利となっていまの日本の原型がなされたのです。しかし、国津神はもともと信仰されていた神様であるため全く否定するわけにもいかず共存するような形となったのだと思います。勝者と敗者の関係性が見えてきます。新しい神様に国を譲れと言われてそれに反対したたけみなかたは戦いに敗れ逃げついた土地が諏訪。諏訪には元からいた有力者がいました。当然、そのには争いが生じたと思われます。結果はたかみなかたが勝ちこの土地を納める事となった。しかし、地元の有力者を全く無視できません。うまく取り込んで地元の民を抑えることに成功したのだと思います。新しい支配者ともともとの有力者の関係性が諏訪大社様の創建に大きく影響していると思います。ここからはわたくしの勝手な想像です。諏訪にはもともとこの土地を支配していた権力者がいました。そこへ地元の権力者以上の軍事力をもった部外者が訪れた。部外者は安住の地を求めていた。部外者と戦っても勝てないと判断した地元の権力者は、諏訪の地の支配を部外者に譲ることとした。平和裏に部外者と地元権力者が共存する約束を交わすことができた。その証として豪華なモニュメントを作った。それが諏訪大社様の成り立ちだと思います。

今回、日帰りバス旅行で諏訪大社様を参拝できたことは大変良かったです。何がよかったか・・・

①自分で車を運転することなく4社を参拝することができまました。

②好天に恵まれて気持ちよく参拝できた。

③諏訪大社様の4社を一気に参拝することができたこと。

④添乗員さんが同行されたので各社のご参拝の前にいろいろ役立つ情報をもらえたこと。

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