11月5日は津波防災の日です。ウイキペディアには以下の記述があります。
津波対策の推進に関する法律(つなみたいさくのすいしんにかんするほうりつ、平成23年6月24日法律第77号)は、日本の法律。略称は津波対策推進法。国や自治体に対し、防波堤や避難施設の整備、迅速な避難の確保、観測体制の強化などを求める法律である。
概要
前文、法の基本的な考え方(第1条 – 第3条)、ソフト面における津波対策の努力義務(第4条 – 第9条)、ハード面における津波対策の努力義務(第10条 – 第13条)、津波対策に係るその他の施策に関する規定(第14条 – 第16条、附則第2条)で構成。
津波の被害から「国民の生命、身体及び財産を保護するため、津波対策を総合的かつ効果的に推進し、もって社会の秩序の維持と公共の福祉の確保に資すること」を目的とする。また、安政南海地震と稲むらの火の故事にちなんだ11月5日を津波防災の日と定めた。
民主党政権での廃案と批判
2010年(平成22年)4月13日に自民党の二階俊博と松本純らで津波対策議員連盟が発足する。同年6月に自民党の松本純と小野寺五典ら野党議員が2010年(平成22年)2月に起きたチリ地震では避難指示で3.8%の住民しか避難しなかったために、死者802人の大半である500人以上の津波犠牲者だったことへの対応を元に「津波対策の推進に関する法律案」を6月11日に議員立法で提出したが第174回国会衆議院本会議で民主党が消極的だったため本格審議されずに継続審議の「つるし」扱いとなっていた。2011年(平成23年)3月11日に東北地方太平洋沖地震が発生し、死者の90.64%(14,308人)が大津波による溺死という甚大な被害が生じた。その後、与党民主党は法案への態度を転換して野党案をベースに共同提案に応じ、法案は震災後である2011年(平成23年)6月9日に再提出されて翌日可決と参議院受理、6月15日に参議院に委員会を通過し、6月17日に参議院本会議で可決、6月24日に津波対策の推進に関する法律として法案は成立した。法案成立後の6月20日の参院東日本大震災復興特別委員会で自民党の赤沢亮正は(法案が会期内に成立していた場合のように)東北地方太平洋沖地震の前年(2010年)の11月5日が「津波の日」に指定されていたら、全国で(津波発生に備えた)避難訓練が行われるはずだった。民主党の不作為で津波の被害者が増大したと批判した。当時の内閣総理大臣の菅直人は早期に法案を通していればもっと人命救えたと述べて民主党政権の非を認めた。2012年(平成24年)に赤澤も参加した自由民主党国土強靭化総合調査会(会長:二階俊博衆議院議員)の第11回会合では「津波対策法案は一昨年、二階先生が中心に作られ国会に提出されたが、与党・民主党が乗らず、東日本大震災後にようやく成立した。震災前に法案が通っていれば、もっと色々と防げたものもあった。民主党はいつも後手後手の対応である。」と民主党の法案への対応を総括している。
稲村の火・・・同じくウイキペディアには以下の記述があります。
稲むらの火(いなむらのひ)は、1854年(嘉永7年/安政元年)の安政南海地震津波に際しての出来事をもとにした物語。地震後の津波への警戒と早期避難の重要性、人命救助のための犠牲的精神の発揮を説く。小泉八雲の英語による作品を、中井常蔵が翻訳・再話したもので、文部省の教材公募に入選し、1937年から10年間、国定国語教科書(国語読本)に掲載された。防災教材として高く評価されている。
もとになったのは紀伊国広村(現在の和歌山県有田郡広川町)での出来事で、主人公・五兵衛のモデルは濱口儀兵衛(梧陵)である。
物語の概要
村の高台に住む庄屋の五兵衛は、地震の揺れを感じたあと、海水が沖合へ退いていくのを見て津波の来襲に気付く。祭りの準備に心奪われている村人たちに危険を知らせるため、五兵衛は自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に松明で火をつけた。火事と見て、消火のために高台に集まった村人たちの眼下で、津波は猛威を振るう。五兵衛の機転と犠牲的精神によって村人たちはみな津波から守られた。
物語の成立と普及
小泉八雲「A Living God」
1896年(明治29年)、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、英語によって “A Living God ” を著した。西洋と日本との「神」の考え方の違いについて触れた文章であり、この中で人並はずれた偉業を行ったことによって「生き神様」として慕われている紀州有田の農村の長「浜口五兵衛」の物語を紹介した。
小泉八雲は作中にも触れられている明治三陸地震津波の情報を聞き、この作品を記したと推測されている。ただし地震の揺れ方や津波の襲来回数など、史実と異なる部分も多い。また「地震から復興を遂げたのち、五兵衛が存命中にもかかわらず神社が建てられた」とする点は誤りである。
中井常蔵「稲むらの火」
広村の隣町である湯浅町出身で、濱口儀兵衛らが創設した耐久中学校の卒業生である中井常蔵(なかい つねぞう、1907年(明治40年)12月12日 – 1994年(平成6年)1月24日)は、和歌山県師範学校在学中、英語テキストで小泉八雲の「A Living God」を読み、感銘を受けた。
1934年(昭和9年)に文部省による国語教科書の教材公募(当時は国定教科書)が行われた。当時は南部町(現在の日高郡みなべ町)の南部小学校で訓導を務めていた中井は、”A Living God ” を児童向けに翻訳・再構成し、「燃ゆる稲むら」として応募した。中井の作品では、具体的な年代や場所などの記述が省かれ、普遍的な物語として構成されている。この作品はそのまま国語教材として採用され、1937年(昭和12年)から1947年(昭和22年)まで「稲むらの火」と題されて掲載された。
中井は1945年、終戦を機に日高郡切目小学校長を最後として教職を退き、酒販店の経営にあたるとともに、南部町町会議員などの公職を務めた。1987年(昭和62年)9月には、国土庁から防災功績者表彰を受けている。
国語教材としての「稲むらの火」
「稲むらの火」は、1937年(昭和12年)刊行の尋常小学校5年生用の国語教科書「小学国語読本巻十」(第4期国定教科書、サクラ読本)に掲載された。続く第5期国定教科書(アサヒ読本)の「初等科国語六」にも引き続き掲載され、1947年(昭和22年)まで用いられた。
地震学者の今村明恒は、1940年(昭和15年)に『『稲むらの火』の教え方について』を著している。
2011年(平成23年)度より利用される光村図書出版の小学5年生用教科書『国語 五 銀河』には、「百年後のふるさとを守る」のタイトルで、防災学者の河田惠昭が書いた浜口儀兵衛の伝記が掲載された。「百年後のふるさとを守る」では、「稲むらの火」の一部採録を行うとともに、そのモデルとなった浜口儀兵衛の事績を紹介し、津波後の復興事業も含めて描いている。これを「稲むらの火の64年ぶりの復活」として紹介するメディアもあった。
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