大神山神社

鳥取県の大山のふもとに大神山神社があります。参拝した日は小雨がちでしたが、境内に入った時は雨があがりました。拝殿はとても歴史を感じる風情がありました。歴史を重ねた建物は独特の威厳を感じます。

大神山神社について調べてみました。ウイキペディアには以下の記述があります。

大神山神社(おおがみやまじんじゃ)は、鳥取県にある神社である。式内社、伯耆国二宮で、旧社格は国幣小社。伯耆大山山麓(米子市)の本社と山腹(西伯郡大山町)の奥宮とがある。

祭神

  • 大穴牟遅神 – 本社
  • 大己貴命 – 奥宮

どちらも大国主神の別名である。

歴史

当社の奥宮は、大山に登った修験者が、海抜900mほどの場所に簡易な遥拝所を設置したのが起源とされている。伯耆大山は、平安時代には修験道場として著名な山となっていたが、積雪により祭事に支障が生じるため、麓に冬宮を設置し、冬期はそこで祭事を行うようになった。これにより、現在の「奥宮」は「夏宮」と呼ばれるようになった

大山は神体山として、大己貴命が鎮まるとされたが、神仏習合が広まると、当社は智明権現と称し、地蔵菩薩を本地仏とするようになった。その後、三院にして百八十坊の規模となり、三千人の僧兵を擁するようになった

『勝見名跡誌』には伯耆大山の智明大権現と因幡・鷲峰山の鷲岸大明神が仲が悪く戦をしたとの伝承が載っている。元弘3年(1333年)、隠岐を脱出した後醍醐天皇が当社で鎌倉幕府打倒の祈願を行った。

明治8年(1875年)、神仏分離によって大山寺を廃し(大山寺は後に再興)、冬宮を本社とし、山腹の智明権現の仏塔を廃し、地蔵菩薩を除いて、奥宮とした

文化財

重要文化財

  • 大神山神社奥宮 2棟
    • 本殿・幣殿・拝殿(1棟)
    • 末社下山神社本殿・幣殿・拝殿(1棟)
  • 短刀 銘備州長船住兼光(附:金熨斗付合口拵)

登録有形文化財

  • 石の大鳥居

県指定有形文化財

  • 奥宮神門

大神山神社のホームページには以下のような記述があります。

「大山おかげ参り」偉大な神のおわす山~大神岳(おおかみのたけ)。古代の人々は大山(だいせん)のことをそう呼んで敬いました。
その大山信仰の中心が古代より連綿と続く大神山神社です。
今でも大山の御神徳を「だいせんさんのおかげ」と地元の人々は敬意と親しみを込めて崇めています。
麓の本社と大山の奥宮の二社をお参りして「大山さんのおかげ」を受けてください。  

由緒:御祭神 大穴牟遅神(命)~本社
 大己貴神(命) ~奥宮
※ 「おおなむちのかみ」~大国主命の別名です

相殿  大山津見神  須佐之男神  少名毘古那神

末社  (本社) 朝宮社  龍神社
(奥宮) 下山神社 横手神社 弁財天社

大神山とは神社が鎮座する「大山(だいせん)」の古い呼び名です。
大山が文献に登場する最初の書物は、八世紀(奈良時代)前半に編纂された「出雲国風土記」で、国引きの条の中に「國に固堅め立てし加志は、伯耆国なる大神岳是なり」と国を引き寄せる綱(鳥取県の弓ヶ浜半島)をつなぎ止める杭として、伯耆国の「大神岳(火神岳)」として出てきます。ちなみに今のように大山と呼ばれるようになったのは平安期以降と思われます。
中国地方の最高峰であり、独立した優美な山容を持つ大山は、神の宿る山として古くから人々の信仰を集めてきました。ふもとに暮す人々はもとより、海を渡ってきた人々からもその神々しさは格別なものが在ったに違いありません。
主祭神の大己貴命は大山を根拠地として国土経営の計画をお立てになりました。「神祗志料」左比売山神社の条には「云々、昔大己貴命、少名彦名命、須勢理姫命、伯耆国大神山に御坐、出雲國由来郷に来坐して云々」と書かれており、大山の山頂に立って雲の上から草昧の国土を見下ろし国見をされて国造りを相談なされたと伝えています。
大山にいつ頃から神社があったのかはわかりませんが、古来信仰を集めていた大山において、頂上を拝める中腹に遙拝所(磐座・磐境等)を設けたのが始まりと思われます。こうした山そのものをご神体として崇めることは日本各地によくあったことで、多くは本殿を持ちませんでした。なぜならば古来の日本の信仰では神様が宿られるのは自然そのものであり、特別にお入りいただく建物は必要なかったからです。伝承によれば大神山でも建物が建ち始めたのは崇神天皇あるいは応神天皇の御代とも言い伝えられておりますが、遙拝所に付随する簡素なものであったと思われます。仏教の影響のもとに本格的な社殿が建てられるようになったのは平安期頃からです。なおその後も本殿は無く、本殿が建てられたのは江戸時代(1701年)になってからです。 奥宮の社殿は寛政八年(1796)に火災に遭って消失し、現在の社殿は文化二年(1805)に再建された物です。この社殿は本殿・幣殿・拝殿が一体化し、それに長廊がT字型に付くという独特の形をしており、内部は権現造で柱・長押には金箔に似せた白檀塗りという技法で彩られ、側面には天女の壁画、格天井には花鳥風月が描かれています。 (奥宮のページ参照・国指定重要文化財)
昔はこの拝殿には神官僧侶等特別な人以外には入れず、一般の人々は長廊までで参拝していました。
仏教が日本中に広まってくると、その影響下に神職と僧侶が同じく神様に奉仕する「神仏習合(混淆)」の時代となり、平安期には大山にも仏教が入ってくるようになました。僧侶は大神山神社の御祭神である大己貴命に地蔵菩薩を祀って「大智明権現」の名を称して神仏を共に崇めることとなり、近くに多くの寺院を建て、平安鎌倉期には三院一八〇坊僧兵三千とまで興隆するようになりました。
しかしこの奥宮の地は標高千メートル近い高地であり、冬には積雪が数メートルにも達する所でありましたので、昔に於いては冬季の奉仕は非常に困難な場所でありました。そこで冬でもお祀りする事が出来るように、川沿いに数㎞下がった大神谷(現在の伯耆町丸山地内)の地に社を建て、これを冬宮と称し、本来の大山中腹の社は夏宮としました。その後ここでも冬季の神事は厳しく、手狭にもなったので、さらに下がった福万原(米子市福万)に移転しました。その後この福万原の社は戦国時代になると戦禍や社会の変化で衰退し、天正年間(安土桃山時代、十六世紀後半)に領主吉川広家により大本坊(米子市尾高地内)の地に社殿を築きました。しかしこの社は八千坪という広大な社地を持っていましたので、吉川氏が岩国に移封された後は維持が困難になり荒廃していきました。 そこで氏子であった中間庄の豪農郡八兵衛が神夢により、場所を尾高の現在地に移して承応二年(1653年)遷座をして冬宮としたのが現在の大神山神社本社です。
神仏習合の時代は長く、江戸時代まで続きましたが、明治時代になると政府により神仏分離令が出され、明治四年に尾高の冬宮は国幣小社に列せられ「大神山神社本社」となりました。ついで明治八年に大山の夏宮(大智明権現社)より地蔵菩薩を除き「大神山神社奥宮」として純然たる神社となりました。このとき地蔵菩薩は大日堂に移され、現在の大山寺になっています。
このように大山は昔から自然信仰・山岳信仰の山として、また神々・祖霊のお集まりになる神山として崇められてきました。
現在でもこの地方に災害が少ないのは大山さんのおかげと言って大山に向かって手を合わせる人も多くいます。

 

下山神社   大山奥宮境内
国指定重要文化財
御祭神 渡辺照政朝臣元徳二年(1330)、備中郡司渡辺日向守の一子源五郎照政は月毎の大山参拝の帰途、いさかいに巻き込まれ命を落としました。人々はこれを哀れみ大山山麓の下山の地に塚を造り篤く葬りました。 その後、照政公の霊による託宣により観世菩薩像を彫りだして奥宮横に社を建て、下山大明神として祀りました。下山大明神は霊験あらたかな事で人々の信仰を集めましたが、慶長年間に鹿野城主亀井豊前守政矩(かめいまさのり・後石見津和野藩主)公は神託に感謝し荘厳な社殿を建立しました。
その後社殿は奥宮とともに火災に遭い消失しましたが、文化2年(1805)津和野藩主亀井隠岐守矩賢(のりかた)公の寄進により再建されたもので、中殿格天井には花鳥風月画、周囲には精緻な彫刻が彫られています。
奥宮大神輿

台座高約3.8m、神座径約1.8m、担ぎ棒長約5.6m、重量約1tの神仏習合様式の八角神輿で、内部には御神像が納められていて外部には金箔が貼られ、担ぎ棒は漆塗りです。
江戸時代中期に日野郡中の寄進により奉納されたもので、明治十八年(1885)までは御幸行列に出されていましたが、、そのあまりの重さに長い参道を担ぐ人を集める事が出来ず、長い間奥宮の長廊に保管されていました。平成十四年に鳥取県で開催された国民文化祭に合わせ、約二年をかけて修復を行い、平成十四年十月二十七日に百十七年ぶりに人々の肩に担がれる事が出来ました。現在は奥宮長廊に展示されています。

 

奥宮へ参拝を予定していましたが、雨がきつくなり断念しました。季節のよい時に、奥宮へ行ってみたいと思っています。

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