- 1987年11月29日 – 大韓航空機爆破事件。
大韓航空機爆破事件(だいかんこうくうきばくはじけん)は、1987年11月29日に韓国・大韓航空所属の旅客機が、北朝鮮の工作員によって飛行中に爆破されたテロ事件である。
日本で大韓航空機事件と呼ぶ場合この事件の事を指す場合と、1983年9月1日の大韓航空機撃墜事件のことを指す場合に分かれる。
事件概要
事件当日
事件の被害に遭ったのは大韓航空に所属する大韓航空858便(使用機体:ボーイング707-320B、登録記号:HL7406)であった。なお、当時の時刻表によればこの便は本来、マクドネル・ダグラスDC-10-30型機で運航されていたが、当日は機材変更によりボーイング707-320B型機で運航されていたという。
フライトプランとしては現地時間午後11時30分(UTC午後8時30分)にイラク・バグダッドのサダム国際空港を出発し、UAE・アブダビのアブダビ国際空港、タイ・バンコクのバンコク国際空港を経由し、韓国・ソウルの金浦国際空港に向かう予定であった。つまり、イラク発UAE、タイ経由韓国行きである。なお、この便はバンコクへの寄港をテクニカルランディング扱いにしていたため、アブダビ〜バンコク間、バンコク〜ソウル間のみの利用は不可能であった。
乗員は11名、乗客は104名であり、乗客のほとんどが中近東への出稼ぎから帰国する韓国人労働者であったという。そして、その内9名は「デッドヘッド」と呼ばれる業務に就いていない操縦乗務員(機長、副操縦士、航空機関士各3人ずつ)で、中東へのフライトから帰国する途中であった。
事件発生
大韓航空858便は、アブダビを協定世界時日曜日の午前0時01分に離陸、インド上空を横断し、ボンベイからアンダマン海へ抜けて上空の航空路R468を飛行し、離陸から4時間半後の現地時間午前10時31分(協定世界時:午前4時31分)にビルマの航空管制空域に差し掛かった。
インドとビルマの国境である”TOLIS”ポイントからラングーンの航空管制官に対し「現在37,000フィート(およそ10,700m)を飛行中。次の”VRDIS”には午前11時01分、”TAVOR”(ビルマ本土上陸地点)には午前11時21分に到達の予定」と報告したのが、大韓航空858便の最後の通信となった。ここで858便は航空路ロメオ68を飛行しており、ほぼ定刻通りにバンコク国際空港に到着するはずであったが、ラングーンから南約220km海上上空の地点で、午前11時22分に旅客機内で爆弾が炸裂し、機体は空中分解し墜落した。
機長は、遭難信号や地上の管制機関に緊急事態を宣言する間もなく、爆発の衝撃で即死した[2] と見られる。乗客・乗員115人全員が、行方不明(12月19日に全員死亡と認定)となった。
捜索
定時報告交信が途絶え、レーダーサイトのモニターに機影は無く、タイの領空に入ると予想された時刻に、航空管制当局とのコンタクトが無い事態から、858便の異常発生が発覚し、韓国標準時午後2時05分(タイ標準時午後12時05分)大韓航空の社内無線交信(カンパニーラジオ)に応答が無いことで、858便の遭難が確定した。
大韓航空機の捜索には、ビルマとタイの両政府当局が当たる事となった。タイ軍は捜索隊を組織し、858便が消息を絶つ迄の気象状況や経過から「泰緬国境付近のジャングルに墜落」と推定しその一帯に派遣されたが、実際にはアンダマン海上に墜落していた。
衛星測位システムや当時のアンダマン海近辺の航空レーダーサイトの整備が貧弱であったことで、迅速に事故発生地点を把握することが出来ず(2014年のマレーシア航空370便墜落事故で再び問題となった)、さらに墜落地点と推定されたビルマ側は、ビルマ政府と対立しているカレン族が支配する紛争地帯であるため政府による捜索は不可能、またカレン族が国境を越えて武装闘争を繰り広げていたため、捜索隊を編成指揮したタイ側も十分な捜索活動は尽せなかった。
12月10日になってアンダマン海から事故機の機体と思われる残骸が、海上や海岸の漂着物などで次々発見、洋上の遭難が確実視されたが、墜落地点の特定は外交関係から1990年まで持ち越された。後述「被疑者の拘束」で、実行犯が確保される一方で、機体が確認されていないにもかかわらず『爆破』と断定したことは、捏造・陰謀説が一部から指摘される一因になった。
改めて推定された遭難地について、ビルマ国内紛争地帯沿岸に近い海域で、外交関係事情から捜索は限定的なものに留まり確定されないまま長期化し、漂着や現地の漁船により、858便の遺留品は救命筏や機体の部品、乗客の手荷物と遺体、バラバラになった機体の一部が偶発的に回収された。これらにボーイング707と確認できる構造原形をとどめたものは数多く、機体の残骸が大韓航空858便であることは明らかであったが、ブラックボックスは発見できず、事件から3年後の1990年3月10日に海底から回収した胴体上部外板一部に、大韓航空がオフィシャルエアラインとなっていたソウルオリンピックのエンブレムが記され、これがHL7406号機特有のもので858便の残骸と断定されるまで長時間を要した。
また搭乗者の完全な形での遺体は捜索が後手に回ったことや、インド航空182便爆破事件など他の多くの空中分解事故のケースと同様に完全なものは1人も発見されず、わずかに回収された遺体の一部がDNA解析され身元が判明した。回収された救命筏などの残骸の多くは高温に晒され強い衝撃を受けた痕跡があり、爆弾起爆から着水までに機体が損壊中何らかの引火から機体の大半が火炎に包まれていたことを裏付けていた。韓国政府の管轄部所では爆弾の位置から機体が空中分解し水上に墜落するまでの過程について、メーカー協力のもと分析を行い報告書を作成、火災の発生と続いて起こった損壊は仮定範囲の記載に留めた。
当初、空中分解の原因は事故機となったボーイング707-320BのHL7406号機(1971年製造、製造番号:20522/855)固有の欠陥が原因と見られていた。このHL7406機は当初は大統領外遊時の特別機として韓国政府が使用していたが、大韓航空に移管され主に国内線で運航されていた。だが事件の10年前の1977年9月に釜山で胴体着陸事故を起こし、事件の2か月前の9月2日にはソウルの金浦国際空港でランディングギアが出ずにまたしても胴体着陸する事故を起こしており、修理を終えて運航復帰した直後に発生したためであった。しかし実際には爆破テロであったことが後に判明することになる。
一方で、ソウルの韓国放送公社(KBS)によれば、事件発生後に大韓航空幹部が「ハイジャックされた可能性がある」と語ったという。だが、それを裏付ける証拠はなく、大韓航空はビルマ政府に情報収集を依頼した。後に爆破したと断定されたあとで「携帯できるような爆発物では航空機の壁に1mの穴を空けることしか出来ず空中爆破は出来ない」という、旅客機の航空事故に関する知識の乏しい軍事評論家の指摘もあったが、これは与圧されていない地上で爆発した場合であり、過去の与圧されている航空機の爆破事件において、1万メートル程度の巡航高度を飛行中の旅客機に亀裂や穴が空くと、そこから与圧された空気が噴出することで、風船が破裂する様に機体が空中分解した例が多数ある(例:コメット連続墜落事故)。
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