日本海海戦(にほんかいかいせん)は、日露戦争中の1905年(明治38年)5月27日から5月28日にかけて、大日本帝国海軍の連合艦隊とロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊との間で日本海で行われた海戦である。
主力決戦は対馬東方沖海域で行われた。日本以外の国々では、この海戦を対馬沖海戦と呼ぶ(ロシア語「Цусимское сражение」、英語「Battle of Tsushima」)。
- 日本ではこのロシア側の艦隊を「バルチック艦隊」と呼ぶ事が通例となっており、本稿でもこの呼称を用いる。
この海戦は日露戦争中の最大規模の艦隊決戦であり、その結果、連合艦隊は海戦史上稀に見る勝利を収め、バルチック艦隊の艦艇のほぼ全てを損失させながらも、被害は小艦艇数隻のみの喪失に留めた。
戦略上は、朝鮮半島周域および日本海の制海権が争点であり、バルチック艦隊(ロシア海軍)は極東ウラジオストク港へ戦艦を一艦でも回航配備しそれを脅かすことであり、対する連合艦隊(日本海軍)は有力艦を一艦も極東へ回航配備させず制海権を保全することだった。
日本海海戦の戦勝により、日本海の制海権確保という戦略目的を完全に達成した。また戦略目的を果たせなかったロシアは政策を転換し、和平交渉拒否を改め、日本との講和交渉の席に着くこととなった。
日露戦争開戦前のロシア海軍は対日戦に備え、旅順およびウラジオストクを母港とする極東の太平洋艦隊の艦船増強などに努め、ほぼ2倍の戦力とすることで日本の連合艦隊(戦艦6隻)を圧倒しようと目論んだ。
1904年(明治37年)2月の開戦時は、しかし戦艦「オスリャービャ」などは本国(バルト海)から派遣途上であり、ボロジノ級戦艦5隻も本国で建造・調整中であった。「オスリャービャ」の派遣は途中で断念され本国へ引き返した。
1904年(明治37年)5月、ロシアは極東海域へ増派する大規模な新艦隊の編成を発表した。これに「第2太平洋艦隊」の名前を与え、それまでの太平洋艦隊は第1太平洋艦隊と改称した。その後、司令長官にはジノヴィー・ロジェストヴェンスキー少将(後に中将へ昇進)、副司令官にはドミトリー・フェリケルザム少将を任命した。この新艦隊はバルト海で戦力となるほぼ全ての艦から編成された[2]。なお黒海艦隊についてはロンドン条約により黒海を出ることを禁止されており、仮装巡洋艦などを除いてこの遠征に加わることはできなかった。
当時、石炭補給が常に必要となる蒸気船からなる大艦隊を、水兵と武器弾薬を満載した戦時編成の状態で、ヨーロッパから東アジアまで回航するのは前代未聞の難事であった上に、航路は日本と日英同盟を締結していた上に、ドッガーバンク事件の影響で険悪となったイギリスの制海権下にあり、良質な石炭はイギリスが押さえていたため劣悪な質の石炭しか入手できる見込みはなかった。ロシアと露仏同盟を結んでいたフランスも日英同盟によって牽制を受け、中立国の立場以上の支援を行うことはできなかった。
1905年1月、旅順艦隊が壊滅した。ロシアは、遠征途中の第2太平洋艦隊に加え更なる増援としてニコライ・ネボガトフ少将を司令長官とする第3太平洋艦隊を編成し、ウラジオストク港へ旧式を問わず戦艦を一艦でも多く回航・配備することとした。
バルチック艦隊はこの海戦によって戦力のほぼ全てを失った。ウラジオストクに到着したのは「陽炎」の追跡を振り切って30日に到着した「グローズヌイ」と、28日以降日本側に発見されなかった二等巡洋艦「アルマース」(29日到着)、駆逐艦「ブラーヴイ」(30日到着)の3隻のみであった。
病院船である「アリョール」と「コストローマ」は臨検の結果、「アリョール」に「オールドハミヤ」の乗員4名が拘留されていたことによって条約違反とされ、「アリョール」は拿捕されて「楠保丸」として日本海軍に編入された。「コストローマ」は問題が無かったため解放されて本国へ帰還している。
バルチック艦隊の艦船の損害は沈没21隻(戦艦6隻、他15隻、捕獲を避けるため自沈したものを含む)、被拿捕6隻、中立国に抑留されたもの6隻で、兵員の損害は戦死4,830名、捕虜6,106名であり、捕虜にはロジェストヴェンスキーとネボガトフの両提督が含まれていた。連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみ、戦死117名、戦傷583名と軽微であり、大艦隊同士の艦隊決戦としては現在においてまで史上稀に見る一方的勝利となった。
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