6月22日 高田好胤(たかだおういん)さんが亡くなったのが1998年(平成10年)6月22日だったそうです。好胤さんは昔 テレビでよく見かけたお坊さんでした。薬師寺の元管主です。お話が上手でお坊さんでありながら結構砕けた話もしてくれていた印象があります。ウイキペディアには以下の記述がありました。高田 好胤(たかだ こういん、1924年(大正13年)3月30日 – 1998年(平成10年)6月22日)は、法相宗の僧。薬師寺元管主。法相宗管長。分かりやすい法話により「話の面白いお坊さん」、「究極の語りのエンタテイナー」とも呼ばれ、そこから百万巻写経勧進の道を切り開いて金堂、西塔など薬師寺の伽藍の復興に道筋をつけるなど、薬師寺の再生に生涯をささげた。
生涯
大阪市出身。本名、高田好一。裕福な家庭に生まれたが、11歳のとき証券会社勤務の父を肺結核で失い困窮した。母方の実家は東大寺龍蔵院で、知人だった薬師寺の管主橋本凝胤が弟子として好胤を引き取った。凝胤の教育は厳しかった。幼少期、友人宅に呼ばれて遊びに行ったとき、レコードで浪曲の「清水港は鬼より怖い、大政・小政の声がする」というくだりを耳にして、薬師寺にはもっと怖い鬼(橋本凝胤)がいると思ったという。夕食後の読経の練習のとき居眠りするとよく火箸でたたかれた。しかし、一方で遠足、運動会のときに弁当を作ってくれるような愛情も持っていたという。奈良県立郡山中学校を経て龍谷大学(旧制)に進学し、1946年に龍谷大学仏教学科を卒業。大学での一期先輩に融通念仏宗管長の倍巌良舜がいる。また、深浦正文に師事して唯識思想を分かりやすく説明する手法を身につけた。
1949年、好胤は副住職に就任。当時の薬師寺は、老朽化が進んで荒れるに任せる状態であった。好胤は「仏法の種をまくことが自分の使命」であると考え、修学旅行の生徒達への法話に力を入れた。18年もの間の長きにわたり、そのユーモアたっぷりで分かりやすい法話は「青空法話」とも呼ばれて人気を呼び、高田の法話を聞いた生徒は、一説には600万人以上にものぼるという。法話は薬師寺境内のみならず、東京の三越劇場などでも行われた。その話術は、のちの人間国宝である落語家の三代目桂米朝も参考にしたほどであった。
1967年、好胤が管主に就任すると金堂の再建を志し、ついで西塔、中門、回廊などを次々と再建した。特に西塔の再建については強い世論の反対があったが小説家でフランス文化相だったアンドレ・マルローの賛意を背景に実現した。その是非については現在も議論が分かれている。再建費用は大きな課題であった。金堂の再建だけでも約10億円が必要だったが檀家組織を持たない薬師寺にはその負担をするのは困難であった。そこで高田は全国の篤志の人々から一人1000円の写経納経の供養料を集める勧進を行い、これを賄おうと考えた(写経勧進)。一人1000円では100万人の写経が必要であった。当初は一年に一万巻しか集まらなかった。好胤は全国、800以上の市町村で8000回におよぶ講演をして周った。好胤の書籍出版が好調だったこと、三越百貨店での月光菩薩展示も追い風となった。これによって復興事業は一挙に進んだ。1976年には念願の100万巻が達成され、同年、金堂が再建された。その後も写経勧進は進み、1997年には600万巻にのぼった。写経勧進は現在も薬師寺の大きな柱の一つとなっている。好胤の没後、大講堂が落成している。建物の再建には法隆寺の宮大工として知られる西岡常一が当り、千年先のことまで考えて建てたという。金堂にコンクリートを使うべきかどうかで行政当局と論争になった。西岡はコンクリートは300年しか持たないが、木は1000年持つと主張したが、結局一部コンクリートを使うことになった。
太平洋戦争における戦没者慰霊にも熱心で各地の戦跡で法要して回った。また、日本を守る国民会議代表委員も務めた。1996年11月に薬師寺で法話中に脳梗塞の症状が現れて一線を離れ、胆石の悪化を併発させて1998年6月22日に胆嚢癌のため遷化。死後、母校の龍谷大学から龍谷賞が贈られた。
本音で分かりやすい言葉を使い、時には仏の道を説く好胤さんを懐かしく思い出しました。
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