1912年7月30日 明治天皇が崩御されました。
ウイキペディアには以下のように記述がります。
明治天皇(めいじてんのう、1852年11月3日〈嘉永5年9月22日〉- 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日)は、日本の第122代天皇(在位: 1867年2月13日〈慶応3年1月9日〉- 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日)。諱は睦仁(むつひと)、御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。
倒幕および攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれた。皇族以外の摂政を設置し、かつ在位中に征夷大将軍がいた最後の天皇。複都制としながらも東京府に皇居を置いた。在位中、国力を伸長させた英明な天皇と謳われ「大帝」と称えられた。皇后とともに和歌も多く残しており、その作品数は93,032首に及ぶ。
日本大百科全書(ニッポニカ)「明治天皇」の解説
皇統譜上第122代とされる天皇(在位1867~1912)。孝明(こうめい)天皇の第2皇子で、母は権大納言(ごんだいなごん)中山忠能(ただやす)の女(むすめ)、慶子(よしこ)。嘉永(かえい)5年9月22日生まれ、祐宮(さちのみや)と命名された。1860年(万延1)皇太子となり、睦仁(むつひと)と改名。1866年(慶応2)12月孝明天皇の急逝により、翌1867年1月践祚(せんそ)。この年、幕府側と討幕派はそれぞれ朝廷への工作を強め、若年の天皇を擁する朝廷は、天皇の名において10月将軍徳川慶喜(よしのぶ)の大政奉還の上表に勅許を与える一方、薩長(さっちょう)両藩主に討幕の密勅を下すという複雑な対応を迫られた。さらに12月、討幕派の主導で王政復古の大号令を発し新政府を樹立、1868年(明治1)から翌年にかけての戊辰(ぼしん)戦争では東征を命じ旧幕府勢力を打倒した。この間、五か条の誓文を発布して新政府の基本方針を宣言し、政体書によって新しい政治制度を採用、明治と改元し一世一元の制を定めた。1869年には東京に遷都し、版籍奉還の上表を勅許した。政府内では初め公家(くげ)や旧大名が中心を占めていたが、しだいに三条実美(さねとみ)、岩倉具視(ともみ)、木戸孝允(たかよし)、大久保利通(としみち)らの発言権が大きくなり、1871年廃藩置県を断行し中央集権体制を実現した。他方、大教宣布(だいきょうせんぷ)の詔を出し、神道(しんとう)の国教化と天皇の絶対化の推進を図った。岩倉らは天皇を主体的な君主として育成するため、宮廷改革を行って旧習を廃止し、天皇親政体制への切り替えと君徳の培養に努力した。1873年征韓論をめぐる政府内の対立には勅許をもって西郷隆盛(さいごうたかもり)の朝鮮大使派遣を中止させ、1875年には漸次(ぜんじ)立憲政体を立てるとの詔書を出して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の対立を調停する役割を果たした。さらに自由民権運動の高まりに対しては、1881年国会開設の時期を明示して運動の鎮静化を図り、1882年の軍人勅諭では軍隊を天皇の軍隊と位置づけ、大元帥(げんすい)として軍隊の統率にあたり、軍備の増強に努めた。1884年以降は内閣制度創設をはじめ立憲制に対応する諸制度の整備に着手し、市制・町村制、府県制・郡制の制定による地域末端までの官僚支配体系の整備と、莫大(ばくだい)な皇室財産を確保した。
1889年、大日本帝国憲法を公布して広範な天皇大権を規定して天皇制国家の基礎を確立し、翌1890年には教育勅語を渙発(かんぱつ)して国民道徳の規範を示した。帝国議会開設後は、衆議院に依拠する政党勢力と藩閥政府が鋭く対立するが、天皇はしばしば詔勅によって調停者的機能を果たし、元勲(げんくん)間の政策上の対立や感情的反目を宥和(ゆうわ)することにも努めた。日清(にっしん)・日露戦争では大本営で直接戦争指導の衝にあたり、また、日英同盟を締結して列強の一員たるべく軍事的、経済的内実の充実を図った。日露戦後には韓国併合や満州経営を進め、植民帝国として膨張政策を採用するとともに、1911年(明治44)には懸案の条約改正を完成させたが、このころから持病の糖尿病が悪化し1912年7月30日に病没した。
若年にして即位した天皇は、幕末から明治時代の激動期を、いわゆる維新の元勲らとともに明治国家の建設に努め、絶対君主として国民に畏敬(いけい)された。日常生活は質素を旨とし、自己を律すること厳しく、天皇としての威厳を堅持した。そのため明治天皇の死は明治国家の終焉(しゅうえん)として意識され、明治天皇を中軸に構築された天皇制国家のあり方にも変容が迫られることになった。
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