金比羅さまといえば讃岐 香川県の金比羅さま その分社が水道橋にあるのでした。JR水道橋駅から白山通りを北上し、ひとつふたつと角を曲がるとすぐに大きな鳥居が見えます。
一本通りを超えるとビルが立ち並ぶ都会です。しかし、ここだけは異空間です。静かな佇まいです。ちょうど桜も満開でとても気持ちよくお参りさせていただきました。幸福の黄色いお守りをお願いしました。讃岐の総本宮から送ってくれるそうです。
金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する単立神社である。明治初年の神仏分離以前は金毘羅大権現と称し、通称は「讃岐の金毘羅さん(さぬきのこんぴらさん)」で知られる。明治初年以降に神社になってからの当宮の通称は「金比羅さん」である。
真言宗象頭山松尾寺の堂宇の一つとして神仏習合の金毘羅大権現を祀り、その別当として寺中の金光院が奉斎した。金毘羅大権現は隆盛し、本堂本尊十一面観音を凌駕し、後発の寺中であった金光院が全山を支配することとなる。目にあたる部分に寺院があり山容が象の頭に見えることから、また、釈迦が千人の弟子に説法をしたと云われるインドの伽耶山も象頭山と呼ばれ山容が似ていることから当山は象頭山と呼ばれた。明治初年に神仏分離・廃仏毀釈が実施されて、金毘羅権現の奉斎は廃止とし大物主を主祭神とする神社となり、神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人金刀比羅本教の総本部となった。全国に約600ある金刀比羅神社、琴平神社あるいは金比羅神社の総本宮である。
当初はあらゆる分野の人々に信仰されていたが、19世紀中頃以降は特に海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集める。時代を超えた海上武人の信仰も篤く、戦前の大日本帝国海軍の慰霊祭だけではなく、戦後の日本特別掃海隊(朝鮮戦争における海上保安庁の掃海)の殉職者慰霊祭も毎年、金刀比羅宮で開かれる。境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。金毘羅講に代表されるように古くから参拝者を広く集め、参道には当時を偲ばせる燈篭などが今も多く残る。
由緒:金刀比羅宮の由緒についてはいくつかの説があり、大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするものである。大宝元年十月の晴れ渡った青空から一竿の旗が舞い降りて象頭山に立ったため、この地に宮を建て旗宮と称したとある。別の説として、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山に住する護法善神金毘羅(クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする。また別の説として、『生駒記讃陽綱目』の金刀比羅宮の條によれば、延喜式神名帳に名が見える讃岐国官社24社の1とされ讃岐国多度郡の雲気神社が金刀比羅宮という記述がある。
保元元年(1156年)讃岐国に配流された崇徳上皇は讃岐で崩御する前年の長寛元年(1163年)に当山境内の古籠所に参籠し、その附近の御所之尾を行宮したと伝えられていることから、崩御の翌年の永万元年(1165年)に本社相殿に奉斎したとされている。修験道の御霊信仰の影響であると云われている。
1573年(元亀4年)松尾寺金光院院主・宥雅が、金毘羅堂を建立し金毘羅大権現を祀る。 その後、1579年(天正7年)長宗我部元親が当山を讃岐の宗教上の拠点にしようと侵入してくると反長曽我部だった宥雅が堺に亡命するや長曽我部は宥厳を院主に据え、1584年(天正12年)には仁王堂(現在は賢木門)を建立するなど寄進をした。しかし、秀吉軍との戦いで5年ほどで長曽我部勢力は讃岐から退去する。そして、1600年に宥厳は元親により土佐へ呼び戻され、その弟子の宥盛が跡を継ぐ。当山も荒廃したが、金光院院主となっていた宥盛が信仰を広め境内を整備した。宥盛は死の直前には神体を守るために天狗に身を変えたとの伝説もあり、今は讃岐三天狗の一狗で金剛坊と呼ばれる(他は八栗寺の中将坊と白峯寺の相模坊)。1606年自らの像を作って本殿脇に祀り1613年亡くなった後しばらくして観音堂後堂に尊体は法衣長頭襟姿で脇に不動明王と毘沙門天を配し秘仏として祀られていたが、現在は奥社に祀られている。
隣には水道橋稲荷社様がいらっしゃいました。こちらも参拝してきました。
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