ご参拝

神田明神様の御参拝を終えて神保町の駅に向かって歩いていました。ざっくりした方向はわかるので適当に歩いていました。そしたら以前に参拝した神社様を見つけました。太田姫稲荷神社様です。古称は一口稲荷神社様です。

太田姫稲荷神社(千代田区区神田駿河台駿河台1-2)は、駿河台東部町会、駿河台西町会、小川町2丁目南部町会、錦町1丁目町会の4町会を氏子として、嘗て、お茶の水聖橋に神社を構えていましたが、昭和6年(1931年)JR総武線の工事の為現在地に遷座いたしました。それより80余年神社及び社務所も老朽化が進み、それに加え、先の東北大震災の際本殿は最大10センチ程傾き、専門家の意見では同等の地震に見舞われたら間違いなく倒壊との診断でした。同じく社務所は何とか倒壊を免れましたが、社務所としての機能が果たせない状況に陥りました。

その以前より先輩諸氏各位が修復計画を何度も立案して居りましたが、中々実施に至れず宮司を始めとして総代衆・氏子中の憂いの的でありました。
今回の大地震が一つの大きなきっかけとなり、修復計画の発足となりました。
昨年、「太田姫稲荷神社修復委員会」を立ち上げ、資金調達の作業を開始した所大手法人会社2社より大口の募財の了承を頂き、氏子4町会より奉賛金、更には各町会の会員より募財協力を頂戴し、今回の修復工事を請け負って頂いた清水建設様には修復費・施行費の件で大変な努力を頂戴いたしました。
80余年前、聖橋より遷座の際も清水建設様にご担当頂いたそうで、計画推進には全面的にご協力を頂き委員会役員一同安堵いたしました。
尚、計画立案・検討の際には、東京神社庁様にプラニング、アドバイス等々多大なご協力を頂戴いたしました。

さて今回の修復工事は本年9月末日が完了予定で動き出しておりますが、本年5月11(土)の祭礼は(陰祭)略式ながら神社前にて祭礼を行い、無事竣工を願いたいと存じます。氏子の皆様方は是非工事の進行具合を検分しつつ、多数参拝にお越し下さい。勿論他の参拝者の方々も大歓迎です!

「太田姫稲荷神社修復委員会」副委員長  永田 眞一 記
1 太田持資(後に道灌)と一口稲荷神社
昔、京都の東南、山城国の一口(いもあらい)の里に「宇迦之御魂神」を祭神とした一口稲荷神社がありました。
このお稲荷様は本来、五穀の神(日々の糧となる五つの穀物の恵みを与えてくれる神)でありましたが、その上、穢(けがれや災い)も洗い清めてくれるということからも「えもあらい稲荷」と呼ばれ、近郷近在の人々の信仰を集めておりました。
室町時代の末頃、関東一帯には天然痘が流行し、この地に在った太田持資(後に道灌)の姫もその病いに罹ってしまいました。
持資がこの噂を聞き及び、さっそく山城国に出向き「一口稲荷」に平癒を祈願したところ、姫は全快したと伝えられております。
後に寺社奉行でありました持資は、相模国の守護上杉定正の命により江戸城を築く時、その鬼門(鬼の出入りする方向、即ち東北、江戸城を基点とすると私たちの地がその方角になる)除けとして、太田家の姫を救った「一口稲荷」を移し奉りました。
長祿元年(1457年)の事であります。

2 天正18年(1590年)錦町一丁目、慶長11年(1606年)聖橋の袂に遷座
徳川家康は豊臣秀吉より関東に封ぜられ、江戸城に入った折り、現在の錦町一丁目にこの社を移しました。
天下平定を成した家康は、慶長11年(1606年)江戸城増築に伴い、この「一口稲荷」を現在の駿河台の一角、聖橋の袂に遷座しました。
そして代々の将軍がこれを崇拝し、その修理造営は徳川家が行ない、僧職が別当(長官)となって、この神社に奉仕致しました。(その頃まだ、聖橋はなく下流の昌平橋は「一口橋」と呼んでおりまして、又この坂はこの神社の表参道でありました。)

3 明治5年(1872年)太田姫稲荷神社と改称、昭和6年(1931年)現在地に移転
明治5年(1872年)東京府より村社に定められ、その名も太田姫稲荷神社と称し錦町一丁目、小川町二丁目の一部、駿河台全域の氏神としました。
また例祭日を4月18日としましたが、後に5月15日に改めました。
大正12年の大震災で類焼しましたが、昭和3年には本社殿が南向き(それまでは東北東)にして新築されました。
昭和6年(1931年)総武線開通工事の為に、現在の駿河台一丁目二番地にそのままの形で移されました。
祭神は「宇迦之御魂神」、五穀の神でその上「穢もあらう」ということは、病を癒し災いを除け、家内安全、商売繁昌の神でもあると思われます。
又、菅原道真公、徳川家康公が合祀されていることにより、文武の神でもあります。
尚、この神社の紋は太田道灌にちなんで、その家紋であります「太田桔梗」以って今日にいたっております。

コメント

タイトルとURLをコピーしました