深大寺様

徳川期、深大寺の元三大師出開帳が明和二年(一七六五)七月と文化十三年(一八一六)六月の二回、両国の回向院(えこういん)で執行されています。前述『遊暦雑記』には、文化十三年の出開帳について「件の慈恵大師の木造は趺坐して右の手を上にし、数珠を繰るの座像なり、その大さ頭より膝にいたりて、七尺五寸、少し前の方へここみて見ゆ、頂の大さ宛も大西瓜ほどあれば、惣体の格好是にて察すべし」とあり、また、江戸に到着した尊像が上野寛永寺の門をくぐろうとした時の様子について「大いなる故、なかなか通りがたく」と記されているほどで、当時の江戸市中の人々が深大寺の大師像の巨大さに驚愕していたことが知られます。近世はまさに元三大師が、深大寺の信仰の中心となりました。。

『縁起』には、「日々にうやまい、月々に利益を得る人おほし」とあり、また『江戸名所図会』には「月毎の三日、十八日、殊に正五九の十八日は別業護摩供修行あるが故に、近郷の人群参せり、門前に市を立る」とあることからも、深大寺の元三大師は普く畏敬の念をあつめていたのであり、今日の賑々しさを垣間見るようでもあります。平成二十一年には元三大師一〇二五年御遠忌中開帳が執行され、二十五年ぶりに深大寺元三大師堂内陣御厨子の御戸帳が開かれ、坐像にして二メートル、僧形の古像としては他に例を見ない魁偉巨大なるお姿を一目拝そうと、僅か一週間の開帳期間に十三万人もの善男善女が押し寄せたのでした。

慶応元年(一八六五)、またもや深大寺諸堂は炎上します。霊仏寺宝の数々は幸いにその難を逃れますが、建造物は山門と常香楼を残すのみとなり、その再興途上に明治維新を迎えます。驚くべきはそのような激動の時代にあって、慶応三年には早くも元三大師堂が再建されるのです。近郷信徒の大師信仰の篤さを物語る証しが、この再建の早さに如実に示されています。

本堂は炎上から五十年後の大正時代に再建の運びとなり、大正十一年(一九二二)秋、復興なった深大寺は摂政宮(昭和天皇)さまの行啓を仰ぎました。
また深大寺釈迦堂に奉安の白鳳釈迦如来像は、大正二年(一九一三)に旧国宝に指定され、摂政宮台覧以来、東国随一の古仏として全国的に有名になりました。

さて、深大寺では昔から蕎麦をつくり、徳川時代には深大寺蕎麦として、将軍家や上野東叡山にも献上され、また蜀山人などが大いに喧伝、来詣者に賞味されてきました。
近年境内には多くの俳人・歌人の碑が建立されましたが、蕎麦をめでながらその足跡を訪ねる参詣者も多く、実に年間百三十万人もの人々が深大寺を訪れます。

深大寺の寺歴の中で消長、興亡を経ながら伝承されてきた信仰、それを育んできた水も緑も、そしてまた蕎麦も深大寺の大切な生命です。釈迦堂に倚座の白鳳仏のみ、深大寺開創以来一三〇〇年悠久の歴史に我々を誘うがごとく微笑をたやさず、訪れる人々に深いやすらぎを与えています。

江戸時代の本堂が幕末の火災で焼失した後、本尊の阿弥陀如来像は仮に、再建した庫裡に安置されていましたが、大正8年に今の本堂が完成しました。

旧本堂は寄棟造りの茅葺き屋根でしたが、再建本堂は入母屋造りの棧瓦葺きに変わりました。正面十間、側面八間(一間は1.8m)という規模は、昔より少し大きくなっているようです。外側を雨戸付きの硝子窓とし、腰を下見板張りとするやり方は昔から変わっていませんが、正面中央の上り口だけは、禅宗様の棧唐戸の引き戸になっています。

旧本堂の正面中央には、入母屋破風の向拝が付いていましたが、今の向拝は唐破風です。梁の木鼻には獅子・象の彫りもの正面の三段の虹梁の間には龍、破風板の下には鳳凰の彫り物があって、江戸時代らしさが表現されています。

参道より一段高い寺の敷地の入口に立つ正門で、正面には「浮岳山」の山号額を掲げています。慶応元年(1865)の火災の際にも常香楼とともに被災をまぬがれた建物で、現在、山内で一番古い建物です。屋根裏にあった棟札には、元禄8年(1695)に1,000人の寄進者・人足によって、このあたりの地形と山門の普請が行われた。と記されています。

東京に残っている江戸時代の建築の中でも、意匠的に特にすぐれたものの1つとされています。

形式は、主柱を3.6m間隔に立てて扉を付け、後方に細い控え柱を立てた薬医門とよばれるものです。柱、梁、組物などの材はケヤキ。屋根は切妻の茅葺き。屋根裏板や垂木はスギで造られています。ケヤキ部分をベンガラで赤色に、スギ部分を黒で塗った、山内唯一の彩色された建物です。

江戸時代の深大寺の建物はほとんどすべて茅葺きでしたが、今では旧庫裡と、この山門だけになってしまいました。ケヤキは昔、武蔵野では屋敷林として植えられ、建築用材として好んで使われていたものです。

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