北口本宮富士浅間神社へは初めて参拝してまいりました。この日の天気は曇り。三島からの移動の途中でにわか雨に遭遇。ゲリラ豪雨までのひどい降りではありませんが、傘なしではとても歩くことはできない悪天候でした。これはなずいな~と思いながら車を走らせました。ナビで目的地到着までの距離を見たらあと4Km。一時真っ暗だった空は幾分明るくなってきました。しかし、まだ雨が降り続いていました。目的地まではあとわずかとなった時、車のフロントガラスにあたる雨が少なくなってきました。ナビに誘導されるまま車を進めると森の中へと進んでいきました。奥さんはちょっと怖いね・・・との言葉で周りの景色に意識を向けたら、なんとなく怖い雰囲気満載でした。天気が悪く日が差さない森の中。木々も大きく天気が良くてもかなり暗い森の中。まもなく神社の駐車場に到着しましたが、駐車できそうな場所がありませんでした。一旦、車を停めて周りをきょろきょろしていると前方に別の駐車スペースがあることがわかりました。車を下車してから分かったのですが、車を停めた場所は本殿からかなり近い場所だったのでした。後から思えばラッキーでした。
早速、拝殿に向かい歩いていきました。雨は上がっていました。境内に入ると明るく感じました。今まで暗くて怖いと感じていた思いは払しょくされました。拝殿の立派さと拝殿の左右にある御神木の存在感に圧倒されました。拝殿の右側に授与所があり、そこで御朱印をお願いしました。最近は書置きの御朱印が多いのでこちらもそうかと思っていたら、手書きしていただけるとのことでした。御朱印帳を渡して、引き換えの番号札をいただき書きあがるのを待ちました。
神社の由緒について調べてみました。ホームページには以下の記述がありました。
景行天皇40年(西暦110年)、日本武尊ご東征の折、足柄の坂本(相模国)より酒折宮(甲斐国)へ向かう途中で当地「大塚丘」にお立ち寄りになられ、そこから富士の神霊を親しく仰ぎ拝され「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」と仰せになりました。よって大鳥居が建てられ、大塚丘に浅間大神と日本武尊をお祀りし、当社の創建となりました。
天応元年(781)、富士山の噴火があり、甲斐国主の紀豊庭朝臣が卜占し、延暦7年(788)、大塚丘の北方に社殿を建立しました。これが現在社殿のある地で、ここに浅間大神をおうつしし、大塚丘には日本武尊をお祀りしました。
古代、富士のような高い山、美しい山は神のおわす山として人が入ることは禁忌でした。よって当地は、ご神体の富士山を遥かに拝み祭祀を行う場でありました。現在拝殿を囲んでいる巨木はその神域を物語っています。
時代は下って、平安時代の頃に山岳信仰が普及し、登山を実践して修行する修験道が各地で広まるとともに富士講が出現し、発展するにつれ、御山に登ること即ち祈り、とする「登拝」によって、人々は山頂を目指すようになりました。
初めて富士登山を行ったのは、大宝元年(701)の役小角という行者であるとされ、のちに富士講の開祖と仰がれる藤原角行師は、天正5年(1577)に登山しています。
富士講は「江戸の八百八町に八百八講あり」といわれるほどに繁栄し強大になり、甲州街道と富士みち(現国道137号線)を通って吉田口(北口)登山道から入山する関東一円、更に北陸や東北、関西にまでも拡大しました。
中でも大きな団体であった村上講の村上光清師は、藤原角行師の6世の弟子にあたり、享保18年から元文3年までの6年間(1733~1738)で、境内社殿の大造営を行いました。現存する社殿と境内構成のほとんどはこの時に定まり、廃仏毀釈により損失しつつも噴火の被害は受けずに、現在もなお当時のままの荘厳な趣を伝えています。
主な社殿は、仁和3年(887)より、藤原当興、北条(左京太夫)義時、武田信玄、浅野(左衛門佐)氏重、鳥居(土佐守)成次、秋元(越中守)富朝、秋元(摂津守・但馬守)喬朝、らによって造営が重ねられました。
貞応2年(1233)北条義時造営ののち、永禄4年(1561)に武田信玄が再建した社殿が現存する中では最も古く、「東宮本殿」として現本殿の東側に、また、文禄3年(1594)浅野氏重殿造営の社殿は「西宮本殿」として現本殿の西側におうつしされています。現在の本殿は、元和元年(1615)鳥居土佐守成次殿の創建で、いずれも国指定重要文化財です。
伺った時は西宮本殿が修繕工事中でお参りすることができませんでした。修繕工事が終わったらお参りしたいと思っています。
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