東日本大震災 今から11年前に起こりました。時が過ぎるのは早いです。当時、わたくしは食品メーカーの営業マンとしてそこの会社の名古屋支店に勤務していました。当日は、名古屋市内を車で営業していました。大きな道路を走行中、車が横揺れするのを感じました。「パンクしたかも」ととっさに考えました。路肩に車を止めてタイヤを確認。パックはしていませんでした。その後得意先へ訪問し、商談が終わり事務所へ戻りました。事務所は何かざわついていました。東北で大きな地震があったみたいとのこと。応接室に設置しているテレビを事務所にいる社員とともに見ました。NHKで臨時ニュースを流していました。東北、関東で大きな地震が発生との情報です。わたしは東京にいる妻へすぐに電話しました。とても揺れた。けがはないが、食器が落ちて割れたとのこと。食器以外に被害はなかった様子でした。よかった一安心。会社には東京支店もありました。東京支店はどうなっている?名古屋支店長が神戸本社へ連絡し、東京支店の様子を聞取りしていました。東京支店へ直接電話しては混乱に拍車をかけるとの判断だったようです。東京でもかなりの揺れを感じたようでした。営業に出ている社員はすぐに帰社、帰社ができない社員は自宅へ直帰との指示が出ました。あとから聞いた話では、一旦帰社した社員が自宅へ戻るのに大変苦労したとの話でした。緊急事態であったので同じ方面の社員は乗り合いで会社の車で自宅へ向かったそうです。普段なら30分程度の道のりが3時間以上もかかりようやく帰宅できたとの話。中には徒歩で帰宅を決めた社員もいました。こちらも大変だった様子です。今まで歩いて会社から帰宅したことがないため道がわからないことや、歩いている人が多く大変混雑していたようでした。徒歩で帰宅した人も3時間や4時間はかかったようでした。当時、東京支店の社員で浦安に住んでいる人が数名いました。のちにニュースで知りましたが液状化がひどかったようでした。道路の陥没、亀裂がいろんなところに起きていたようでした。そのため水道管が破損し断水していたようです。断水はしばらく続いたとのことでした。
当時勤務していた食品メーカーは神戸に本社があり1995年1月17日の阪神淡路大震災で大きな被害を被りました。本社建屋への被害、記念館の倒壊、本社工場の建屋及び製造設備への被害、貯蔵タンクの倒壊 悲惨な現場であった様子です。その震災を教訓に危機管理はそれなりに整えていきました。しかし、それでは不十分であったことがわかりました。より詳細に具体的な行動の取り決めが必要でした。災害は起きた当初は様々な備えに動くのですが、時間の経過とともにその意識が薄れ、やがて危機意識がなくなってしまう。
「正常性バイアス」という言葉を聞くようになりました。自分だけは大丈夫、自分の家族だけは大丈夫と思いこむこと。わたしもその考えを持っています。実際、阪神淡路大震災、東日本大震災 どちらの震災も直接的な体験、被害を被っていません。それがいまだに自分は大丈夫との意識を強くしているのかもしれません。逆に両方の震災を経験した方もいます。そのような方は危機意識が高く、災害発生時の対応力が高いと思います。そう思ったのは父の話を聞いた時でした。父はすでに他界しています。昭和一桁生まれであるため戦争経験者です。戦時中、戦後を10代に経験した人間は経験値が高い事を知りました。サバイバル能力が高い。阪神淡路大震災の時、父は神戸で飲食の商売をしていました。緊急時、危機的状況で自分や家族(当時は母と二人暮らしでした)をいかに守るかという能力が高いとのちのち感じました。経験に勝るものはないのです。その時 辛い経験であってもいつかその経験は自分を助けることとなるのです。辛くても我慢するという気持ちで向き合うのではなく、それがいつの日か自分を助ける経験となるのだと思えば違った思いが自分を助けてくれます。
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